その後ろ姿に気づいたのは、彼の頭頂部が会場のライトに照らされていたからだ。途中で来院しなくなったとはいえ、複数回、自分が施術した頭皮はなかなか忘れられるものではない。な、という文字がまず頭に浮かんだ。な、のつく姓ではなかったか。頭頂部は確かにライトに照らされると、その薄さが目立つが、禿げている、というわけでもない。後をつけるつもりもなかったが、途中で行くことを放棄した(しかも薄毛治療の)クリニックの医師に出会うのは彼にとっても、気持ちのいいものではないだろう、と思い、彼を追い越さないように私は距離をとって絵をじっくりと眺めている振りをした。
 時折、先を行く彼に目をやるが、同伴者がいる様子もない。若い男性でもピーターラビットの原画は見たいものなのか、と思うと、それが少しおかしくもあった。展示されている絵はそれほど多くはないので、すぐに出口近くのミュージアムショップに出てしまった。彼はピーターラビットの絵のついたマグカップを手にしてじっと眺めている。彼自身が使うのか、それとも、彼女の……。と思っていたときに、彼が顔をあげた。あ! という顔で私の顔を見、バツの悪そうな顔をした。母親に叱られた子どものような顔だ。
 彼が会釈をする。私は笑顔を返した。何も咎めてはいない、という表情で。もう彼とは医師と患者、という関係ですらないのだから。
 濃くて熱いコーヒーが飲みたかった。ミュージアムを出たあと、併設のカフェでコーヒーを飲もうと足を向けた。できれば店の奥の席が良かった。すすめられるまま、ソファ席に座る。隣に彼がいた。スマホを手にしてぼんやりとしている彼が私の顔を見て、また、ぎょっとした顔をした。後をつけた、とは思われたくない。
「席を替わりますね」そう言って店員を呼ぼうとすると、
「いや、だいじょうぶです」と彼が低音のよく響く声で言った。私と彼は隣合って座った。彼もコーヒーを頼んだのか銀色のポットが目の前にある。私は用もないのにスマホを出して眺めた。スタッフ同士のグループLINEはあるが、クリニックを出てからは誰も何も発信していない。もし、さっき下田さんが言ったように、私のクリニックをやめるのならば、新規のスタッフを雇うしかない。スタッフ同士の関係はすぐに良好になるわけではない。クリニックにとってスタッフ同士が連携してくれる関係が熟すまでには時間がかかる。うまくいっていると思っていたのに。また、一からやり直し、いつ佐藤直也に相談するべきか……。
「すみません」という声に気づくまでに時間がかかった。自分は余程真剣に考えを巡らせていたのか。声は隣からする。私は左を向いた。
「あの、僕、治療を途中で止めてすみませんでした……」
 私は医師の顔で言った。
「ああ、そんなこと……。みなさん、お仕事で忙しいし、特に時間のかかる治療だと、そういう方も多いんですよ。気になさらないでください」
 そこで気がついた。彼は結婚式のために治療を始めたのではなかったか。業平さん、という名前がまるで啓示のように蘇った。
「あ……それに結婚式のご準備、忙しいんじゃないですか。おっしゃってましたよね」
 そう言うと、彼はコーヒーのカップを見つめた。
「ああ、あれは……」
 ひどく苦いものを飲むようにコーヒーを口にする。彼の動く喉仏を私は見た。
「……なしになりました」
 そう言いながら、親指でカップの縁をぎゅっと拭う。
「……そう、だったんですか……」と悲しそうな声で言ってはみるが、正直なところ、彼の結婚がだめになろうと私の知ったことではない。そのまま彼は黙り、またコーヒーを口にした。もう患者ではない他人なのだ。患者であってもプライバシーの領域なら首をつっこまないのに、他人であれば、なおのこと、もう自分とは関係のない人間だ。
 けれど、なぜ、あのとき、彼にそんなことを言ったのか、今振りかえっても理解不能だ。気軽にお酒を飲もうよ、という友人すらいないこと、スタッフ同士の問題、老人介護施設にいる母のこと、毎日の業務。そんなものから自由にしてくれる人が自分には誰もいないこと。まとめて一言で言うなら、私はそのときひどく寂しかったのだ。