芥川賞&直木賞候補作家・窪美澄さんの新刊『私は女になりたい』の刊行に先駆けて、期間限定で連載掲載! 毎週水曜日更新・全7回にわたってお届けします。本日は、第5回目です。

<あらすじ>主人公の奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきたけれど、事故のように、十四歳年下の男性患者と恋に落ちます。実は、奈美はクリニックの雇われ院長に過ぎず、佐藤という謎のパトロンがいるのです。パトロンやクリニックのスタッフ、息子の手前、秘めた恋のはずでしたが……。
 
 

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『私は女になりたい』窪美澄

(五)
 エレベーターで十一階に向かい、部屋のドアを開ける。ふりかかった災難なのに、なぜだか若い男を部屋に連れ込んでいる、というほの暗さが自分の心に生まれる。廊下の先にあるリビングのソファに彼は倒れ込んだ。まるで、その場所にソファがあることを知っているかのように。私は横になってしまった彼のジャケットを苦労しながら脱がせた。顔色はさっきよりは悪くない。急性アルコール中毒ではないだろうが、その可能性もゼロではない、と医師としての判断を下して、私は彼のネクタイを緩めた。冷蔵庫からポカリスエットのペットボトルを取り出す。その冷たさに、季節がもうずいぶん冬に向かって進んでいることを改めて知った。
 ソファで寝ている彼の頭を起こし、
「業平さん、これ、少し飲んでください」
 医師の声で言った。こくり、こくり、とゆっくり、一口ずつ飲むたびに彼の喉仏が動く。
「業平さん、気分はどう? 吐きたい?」
 そう言うと首を横にふる。そう言って目を瞑ってしまう。一応、念のため、と思いながら、私はチェストの中から、血圧計と聴診器を出して、彼のシャツの袖をめくり、血圧を測り、シャツの上から聴診器を当てた。どちらも正常ということがわかって、思わず深いため息が出た。
 クローゼットの中から毛布を取りだし、彼にかけた。暖房をつければ寒いことはないだろう。私は今すぐにでも今着ているこの服を脱ぎたかった。彼の様子ではすぐに起きることはない。そう見当をつけて簡単にシャワーを浴びた。髪を乾かしながら、脱いだニットに鼻を当てると、焼き鳥のにおいがしみついている。どれだけあの店で煙にいぶされたのだろう、と思うと、なぜだかおかしかった。
 部屋着に(と言っても、それはユニクロのスエットだ)着替えて、リビングに戻ると、額に腕を載せた業平さんがぼんやりと天井を見ていた。私に視線をやって、不思議そうな顔をしている。体を起こそうとしたので、私はそれを手で制した。
「あの、なんで……僕」
「どうしてここにいるかってこと?」
 彼がこくりと頷く。
「あなたをタクシーで家に帰そうとしたの。だけど、自分の住所も言えないほどひどく酔っていて。急性アル中ではないと思ったけれど、あなた、一回吐いているからね。そのまま無理矢理家に帰したとしても、吐物で喉でもつまらせたら、と思って。一応、私は医者だから。私のほうが不安になるから。仕方なくここに連れて来たの」
 仕方なく、と私はもう一度、力をこめてそう言った。
「すみません……」消え入るような声だった。
「最近、前後不覚になるまで飲んでしまうことが多くて」
「だろうね」と言いながら、私はダイニングテーブルの椅子に座った。
「僕、何か変なこと言っていませんでしたか?」
「変なこと?」
「結婚がだめになって、それで」
「その話はもう何回も繰り返していたよ。駅まで送ろうとしたら、あなた、これから風俗に行くって」
 ああああああ、と彼が妙な声を出しながら、腕で目元を覆う。私は笑った。
「本当にすみません。先生にそんなことまで」
「もう何回も言ったけれど、あなたと私は患者と先生さんではないよ。ただの他人だから。それにしては今日、あなたのことを色々と知ったけれど。あなたが次から次へとしゃべるから」
 ああああああ、と再び彼が声をあげた。
「本当にご迷惑をおかけして」と彼が体を起こしたが、頭を抱えて蹲る。
「明日はひどい二日酔いだろうね」
「僕、帰ります」と言いながら立ち上がるが、その足下もおぼつかない。
「ひと眠りしなさい。私ももう眠るから、目が覚めたら帰って。タクシーはマンションを出て角を曲がればすぐに拾えるだろうから」
「お言葉に甘えてもいいんでしょうか……」
「あのね、飲んでいる最中に何度も言ったけれど、私とあなたはもう医師と患者の関係じゃないの。だから、そんなに恐縮されたり、敬語を使われるとこっちも緊張する。……まあ、また機会があったらごはんでも食べよう」
 最後の言葉は年長者としての社交辞令として言ったつもりだった。彼ともう多分、二度と会うことはないだろうと。けれど、その言葉で彼の顔が輝くのがわかった。
「あ、じゃあ、LINE交換を」
 はい? と私が思っているうちに、彼は自分のバッグからスマホを取り出し、私のほうに手を差し出す。
「なに?」
「LINE交換ですよ。僕、また、赤澤さんとごはん食べたいですもん」
 面食らった。が、私はバッグから出したスマホを彼に手渡していた。彼が二つのスマホを操作し、私に返した。ぴこん、と間の抜けた音がして、私のLINEにぴょんぴょんと動くクマのスタンプが送られてきた。そのあとに携帯番号。
「飯をうまそうに食べる人と飯を食いたいんですよ僕。赤澤さんの時間のあるときでいいので」
 そう言って彼は毛布に顔を埋めた。きっとまだこの人は酔っているのだろう、と思った。さっきは聞こえなかった寝息がすぐに聞こえてきた。どこまでが演技で、どこまでが演技じゃないのだろう、と思わずにはいられなかった。
「おやすみ」そう言ったが、返事は返ってこなかった。