芥川賞&直木賞候補作家・窪美澄さんの新刊『私は女になりたい』の刊行に先駆けて、期間限定で連載掲載! 毎週水曜日更新・全7回にわたってお届けします。本日は、第3回目です。

<あらすじ>主人公の奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきたけれど、事故のように、十四歳年下の男性患者と恋に落ちます。実は、奈美はクリニックの雇われ院長に過ぎず、佐藤という謎のパトロンがいるのです。パトロンやクリニックのスタッフ、息子の手前、秘めた恋のはずでしたが……。
 
 

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『私は女になりたい』窪美澄

(三)
 月に二度は奥多摩にある老人介護施設に通っている。母に会うためだ。
 自宅から電車で二時間ほどかかる。最初、ここに母を預けたときは、山に母を棄てたような気分にもなった。けれど、自宅から遠く離れている、ということが私にとっては重要なことだった。万一、母の体調が急変したとき間に合わないかもしれないくらいの距離。その距離が私には必要だったのだ。
 施設のなかに入ると、テレビのあるラウンジのようなところで複数の老人たちがぼんやりと過ごしている。皆、同じようなトーンの服を着て、同じように背中は曲がり、同じように短く髪を切られているので、男女の区別もあまりわからない。私はそのなかから、車椅子に乗った母を見つける。母の手元には毛糸の束がある。白い毛糸が一本、右手のひとさし指に巻かれているが、母はそのことにすら気がついていないようだった。
 案内してくれた介護士の若い女性が、
「ご体調がいいときは指編みというのをされているんですけれど、今日はあんまり興味がないのかな」
 と、まるで幼児に語りかけるようにして母の顔をのぞきこむ。彼女が靴音を立てて行ってしまうと、私は近くにあった丸椅子を母の車椅子に寄せて、そこに座った。
「お母さん、奈美だよ」
 そう言っても母は何も反応しない。補聴器をつけているのだから聞こえているはずだが、母はただ、どろりと濁った瞳を空中のどこかに向け、口を半開きにしている。
 私が憎んだ母親という存在がこの人であるはずがない。
 若い頃の母は激しい気性の人だった。口を開けば祖母や父に対する呪詛の言葉が飛び出した。私はそれを聞きながら育った。諍いの多い家だった。祖母に溺愛されて育った父は、祖母側の人間だった。祖母の溺愛にも理由があった。父の弟にあたる叔父を生まれてすぐに亡くしている。相手を真綿にくるみ窒息させてしまうような愛し方は、たった一人の孫である私にも向けられた。私は物心つくまで、祖母が母だと思っていたくらいだ。小学校に入るまで、祖母の布団で寝ていた。たった一人の娘をとられた、という思いは母のなかでねじれ、その鬱憤は溜まり、祖母や父を罵倒する声に変わった。母の口数は多く、祖母や父を攻撃したが、祖母はたった一言で母を負かすようなこともあった。母は北陸の出身だが、母がなにかしらの粗相をすると、
「これだから、田舎の人は」と母に聞こえるように私に向かって言った。
 祖母、父、母の諍いで、私は母の側についたことがない。それも母を孤立させた原因であったと思う。サラリーマンだった父がいない昼間は、祖母も母も目を合わせようともしない。私が帰ってくれば、二人で争うように世話を焼き、父が帰ってきてもそうだった。私と父は左右の腕を、祖母と母とに引っ張られて、右往左往していた。それがあの家の日常だった。
 そんなふうに私は育った。母の鬱憤はもう決壊寸前のダムのようになっていたのだと思う。母はある日突然、家を出た。私は高校生になっていた。母にとっては自分の実家に帰って、父と祖母との関係を冷却する期間、と思っていたようだが、祖母は母が私を残して家を出たことを絶対に赦しはしなかった。祖母にとっては、母を追い出す絶好の機会だったのだと思う。正直なところ、母が家にいなくなっても、まだ若い祖母がいたから、私の生活が激変することはなかったし、母がいなくなって寂しい、と思ったことがない。そういう自分のことを冷たい人間だとも思わないくらい、私のなかでは、母は存在の薄い人間だったのだ。祖母が言う、「あの人は子どもを置いて出て行くような冷たい人間」という言葉を疑うこともなかった。
 その後十数年を経て、母に再会してから知ったことだが、母は何度も私の家を訪れ、私を引き取ろうとした、らしい。手紙や贈り物もしたのだ、と聞かされたが、それが私に渡されることはなかった。私の目に触れる前に祖母が処分したのだろう。私が知らない間に両親は離婚し、そして、私は母のいない子どもになった。