「あの、少し聞いてもいいかな?」
「ええ、なんでも」
「なんで結婚だめになったの?」
「……ああ、それは」
 それこそが彼が話したいことなのだろう、という確信があったし、単に下世話な興味もあった。もう他人同士。だからこそ話せる話もあるだろう。
「……先生は結婚してはります?」
 左手の薬指を盗み見すればわかることだろうに。彼があえて、聞いてくれたような気がした。
「あの、先生っていうのはやめてもらえるかな? もう、業平さんは私の患者でもないし。私、赤澤奈美って言います。赤いにむずかしい方の澤」
「赤澤さん」
「まあ、それで」と私が言うと、彼が笑った。
「私はバツイチなの、子どもは引き取って、今、十九歳。大学生」
「へえ、そんな大きなお子さんがいてはるとは思えなかったな……」
 彼なりのおべっかだとわかってはいたから、私は曖昧な笑みを返した。
「いきなりこんなことを聞くのは失礼だと思いますけれど……赤澤さんは、なんで結婚しようと思ったんですか?」
「別に結婚を考えていたわけじゃないの。いっしょには暮らしてはいたけれど。だけど、子どもができて。それで籍を入れた、というだけ。結婚式もしていないし、結婚指輪ももらってない。子どもが十三のときに離婚して……」
「出来ちゃった婚というやつですか……」
「今はそんなふうに言わない。授かり婚て言うらしい」
「授かり婚ねえ……先に子どもでもできたら、また違っていたのかも」
「えっ、どういうこと?」
 目の前の皿には焼けた焼き鳥がどんどん積まれる。いつもなら、箸で串から外して食べるところだが、ここではそんなことをしている客はいない。私は串のまま、塩味のハツにかぶりついた。
「元彼が忘れられない、と言い出したんですよ……」
 はははっと思わず笑ってしまい、慌てて「ごめん、ごめん」と付け足した。いかにも若い女の言いそうなことだ、と思ったからだ。
「彼女、いくつ?」
「二十九です」
 クリニックに来る患者さんを見ていても、二十代後半から三十代前半は、女としての商品価値がいちばん高い、ような気がする。つまり彼女ら自身も女としての自尊心が高い。結婚相手をキープしつつ、急にほかの男のことが気になり出す。いかにもありそうなことだと思った。
「全部うまくいってたんです。両家の挨拶も済んで、後は結婚式を待つだけ、っていうときに、彼女がそんなこと言い出して」
「で?」
「結婚は結局取りやめにしたい、僕と距離を置きたい、と。前の彼氏とやり残したことがある、って」
「なるほどねえ……」と言いつつ、心のなかでは会ったことのない彼女に対して嫌悪感が生まれた。彼女は若くて綺麗だろう。自分にも自信があるのだろう。複数の異性に好かれて、有頂天になってもいるだろう。複数の男を選べる権利を手にした女だからできること。体も心もいちばんに美しいとき。けれど、その果実がしなびていくことを彼女はまだ知らないだろう。
「僕の何がいけなかったんですかね。性格? 容姿?」
 セックスかもね、と酔った勢いで言いかけたがやめた。そう言われても、業平公平の性格など、今日初めて私的な話をした私にわかるわけがない。とんでもない欠陥があるかもしれない。
「薄毛だからですか? いつか禿げちゃうかもしれないから?」
「いやいや、それはちゃんと治療をしたら直るから」
「先生には、いや、赤澤さんには悪いけれど、結婚が取りやめになってから、もう薄毛なんて僕にはどうでもよくなってしまって、それで……」
「何度も同じことを言うようだけれど、治療に急に来なくなるなんて患者さんはたくさんいるんだから、気にしなくていいよ」
 なぜ、彼とはこんなふうにフランクに話すことができるのか、と考えて、ふと気づいた。玲と話しているときの自分に近いのだ。