ベッドの中で携帯のアラームを止める。慌てて支度をしようとするが、そうだ、今日は休日だったのだ、と思い、私はベッドの中で体を伸ばした。もう一度眠ったっていいのだ、と思うけれど、この年になると、なかなか二度寝もできない。眠ることにも体力がいるのだ、と実感したのはいつのことだったか。
 ルームシューズを履き、リビングダイニングに向かった。かすかに酒のにおいがする。ソファの上に綺麗に畳まれている毛布を見て思い出した。そうだ、昨夜、業平公平がこの部屋に来たのだ。部屋の空気を入れ換えようと、私は掃き出し窓を開けた。冷たい十一月の空気が私の体を冷やしていく。
 いつ彼が帰ったのか、気づきもしなかった。私はソファに座った。そうしようと思う間もなく、私は毛布に顔を埋めていた。酒のにおいはしない。なぜだか干し草のようなにおいがした。成人した男のにおいだった。ふと、ダイニングテーブルの上に置かれたものが目に入った。なんだろう、と思いながら近づく。ピーターラビットの絵のついたマグカップだった。それを見て私は自分の口角が上がっていくのを感じていた。彼はこのマグカップをあのミュージアムショップで買ったのだ。自分のために? それとも結婚解消になったあの彼女のためだろうか? どんな顔で彼がこれを買ったのかを想像するとおかしかった。彼自身、これを私の部屋に置いていくことになるとは想像もしていなかったに違いない。
 テーブルの上にはマグカップ以外、メモのようなものはない。昨日の礼、ということでいいのだろうか、と思いながら、私はマグカップの取っ手に指を入れ、何かを飲む真似をしてみた。これで飲むコーヒーはどんな味がするのだろう、と思いながら。
 午前中は家で仕事をし、午後はジムに行って加圧のパーソナルトレーニングを受けた。腕と脚の付け根にベルトを巻き、トレーナーの指示どおりに体を動かす。たったの三十分なのに、五分もしないうちに額から汗が噴き出す。
「片足でバランスを取ってみましょうか」
 若い女性トレーナーに言われるまま体を動かすが、ベルトを巻いたまま、片足を上げ続けるということができない。それがただ、恥ずかしい。
「腸腰筋という筋肉が衰えているのかもしれませんね。ここが衰えていると年をとって転倒の可能性も高くなるんです」
「それは困ります」私が言うと、
「じゃあ、鍛えましょうね」と笑顔で返された。
 私は彼女に言われるまま、鏡の前で無様に体を動かし続ける。医師としてもちろん、腸腰筋という筋肉があることは知っている。けれど、それが自分の体のなかに存在する、ということを意識できるようになったのは運動を始めてからだ。
 最初は痩せたい、という目的だけだったが、しばらく運動を続けて、ベスト体重より、二、三キロ多いくらいをキープできるようになってからは、ボディラインを整えるほうに意識がいった。そうはいっても、おなかの余分な肉が瞬く間に削られるわけではないし、垂れ下がったお尻がすぐに上がるわけでもない。若く見せたいのではない。現状維持。そして、年齢を重ねても、いつまでも杖なしで歩ける体が欲しい。私の願いはそれだけだった。
 トレーニングを終えて、ロッカールームで着替えをしようと、バッグを取り出すと、スマホにメッセージの着信があるのが目に入った。元夫の名前。見ただけで眉間に皺が寄る。
〈今日、少し、時間とれない?〉
 彼が私にこんなメッセージを送ってくるときには、理由はひとつしかない。お金だ。三ヵ月から四ヵ月には一度、もう他人である元の夫からこんな連絡がある。私のクリニックが今日は休診日だとわかっているのだ。クリニックの診療がある日にメッセージが送られてくることもあるが、私は彼を無視し続けた。それでも、何度でも〈もう頼れるところがない〉という泣き言メールを送り続けてくる。私が心配しているのは、彼がお金に困って再び自死を試みるようなこと。私を飛び越して、玲に金の無心をする、ということ。その二つだった。彼もそれがわかっている。それが私にとって脅威だということが、わかっていて、私にSOSを送る。