芥川賞&直木賞候補作家・窪美澄さんの新刊『私は女になりたい』の刊行に先駆けて、期間限定で連載掲載! 毎週水曜日更新・全7回にわたってお届けします。本日は、第4回目です。

<あらすじ>主人公の奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきたけれど、事故のように、十四歳年下の男性患者と恋に落ちます。実は、奈美はクリニックの雇われ院長に過ぎず、佐藤という謎のパトロンがいるのです。パトロンやクリニックのスタッフ、息子の手前、秘めた恋のはずでしたが……。
 
 

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『私は女になりたい』窪美澄

(四)
 業平公平は二週に一度、主には水曜日の午後六時過ぎにクリニックにやってきた。
 たわいもない世間話をする。施術をする。ほかの患者さんに対する態度となんら、変わりはしない。私に最初から彼に対する恋愛感情があったわけではない。神に誓ってそうだ。季節はうんざりするような残暑を経て、秋らしい秋はなく、いきなり冬を迎えつつあった。
「結婚式もうすぐですね。準備で大変な時でしょう」
 まるで自分もそういう体験があるかのように私は彼に言った。
「ええ、まあ……」
 それだけ言って口ごもる。聞いてはいけないことを言ってしまったか、と心の中で詫びながら、私も口を噤んで施術を続けた。その日を最後に彼はクリニックに姿をあらわさなくなった。そういう患者さんは珍しくない。コースで高額な治療費を払っているにもかかわらず、途中で脱落するように彼らは二度とクリニックにあらわれない。院長になった当時は何が気にいらなかったのか、とくよくよ悩んだものだったが、まるでそういう患者さんを補うかのように新規の患者さんはやってくる。老舗のウナギ屋のタレのように、決して減ることはない。去る者は追わず、と私は心に決めて、日々の治療を続けていた。突然いなくなる患者さんと同様に、彼のことも日々が経つにつれて、私の脳のどこかに消えさっていった。
 夏に取材を受けた女性誌に記事が掲載されたあとの患者の増え方は、私を含め、スタッフ全員を疲弊させるのに十分なものだった。それでも、日中にやってくる患者さんはなんとかさばくことができた。問題があるとすれば、会社勤務を終えてからやってくるOLやサラリーマンなどの患者さんが急増したことだった。時短勤務の柳下さんがいなくなると、途端に流れるような作業が途絶えてしまう。下田さんも成宮さんも仕事には慣れていたが、柳下さんほどには患者さんのさばき方がうまくはない。クレジットカードでの支払いの段取りに手間取ったり、患者さんの前後を間違えるミスが多発する。それをフォローするのも自分だった。柳下さんさえいれば、と何度思ったかわからない。
 自分のミスは棚にあげて、
「柳下さんがいないからこんなことになる」と下田さんが口にすることもあった。彼女をなだめるのも私の仕事だった。午後七時までの開院時間をもう一時間延ばしたほうがいいのか、それともスタッフの数を増やしたほうがいいのか。下田さんと成宮さんには申し訳ないが、正直なところ、柳下さんだけは失いたくなかった。けれど、保育園のお迎えがある、彼女の勤務時間を延ばすことはできない。それでも、この患者の増え方も多分、一時的なものだから、佐藤直也に相談するのは、もう少し先でもいいだろうと、私は考えていた。