芥川賞&直木賞候補作家・窪美澄さんの新刊『私は女になりたい』の刊行に先駆けて、期間限定で連載掲載! 毎週水曜日更新・全7回にわたってお届けします。本日は、第6回目です。
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『私は女になりたい』窪美澄
(六)
私が若い頃にはLINEなどなかった。恋愛の相手と連絡をとるには、家の固定電話か公衆電話しか手段がなかった。大学時代に、初めての恋愛をした相手とは、家族が寝静まった頃を見計らって、小声でやりとりをしたものだ。ポケベルが登場したのは三十代だったが、私がそれを恋愛に使った記憶はない。主に保育園や元夫とのやりとり。ベルが鳴るたび、また仕事が中断されるのか、と肝を焼く思いがした。
離婚後に二人の男と短い恋愛をしたことがあったが、彼らは私よりも年上で、携帯を持ってはいたが、LINEなど使ってはいなかった。どちらの男もメールで用件を伝えてきた。LINEのアプリを私のスマホに入れたのは玲で、今は、病院のスタッフともLINEでやりとりをしているが、あとは時折、大学時代の友人から、ふいに〈元気?〉などとメッセージが来るくらいで、自分から積極的に活用しているとは言えない。元の夫もLINEを使わない。彼はいつもメッセージ機能で用を伝えてくる。
クリニックのスタッフが「既読にならない」と彼氏を責めている声を聞いても、自分にはまったく無縁のことだと思ったし、恋愛において、こうした通信機能の発達が要らぬ心配を呼ぶのでは、と他人事のように思っていた。
業平公平はほぼ毎日と言っていいほど、私のスマホを鳴らした。今日はどこで仕事をしているか、今日の昼は何を食べたか、そういった写真を一言添えて送ってくる。診療中にはもちろん、スマホはマナーモードにしていたが、あまりにもスマホが震えるので、電源そのものを落としたくらいだ。最初は彼が送ってくる写真やメッセージになんと返していいのか、わからなかった。思い出したのは、玲の幼少時代だ。今はだいぶ口数も少なくなったが、子どもの頃は、「お願いだからもうだまって」と叫びたくなるようなおしゃべりだった。
「ねえねえ、お母さん、今日、こんなことがあってさ」
公平のLINEを見ていると、幼かった玲が話しかけてくるような錯覚にとらわれた。玲から弾丸のように言葉を投げかけられたとき、自分はなんと言葉を返していたか。
「へええ、すごいねええ」
「よかったねえ。今日も楽しかったんだねえ」
そう言えば、玲は小さな鼻の穴を膨らませて納得した顔になったものだ。そうか。それでいいのか、とはたと気づいてからは、公平のLINEになんと返信すればいいのか悩まなくなった。
大抵は、スタッフたちがランチに出払ったクリニックの診察室で、スマホの電源を入れた。営業で行ったらしい各地の空の写真(なぜだか彼は空を撮影することが多かった)が来れば、〈綺麗だね〉と返し、彼が食べたランチの写真が送られて来れば〈おいしそう!〉とだけ送った。診察室に入ってきた柳下さんに、
「先生、携帯見て、笑って。珍しい。何かあったんですか?」と疑惑の目を向けられたが、
「いや、大学時代の友人が変なことを書いてきて」とその場を取り繕った。
仕事が終わるのはだいたい午後八時近くだ、と伝えてあったので、業平公平の仕事が終わっていれば、ますますLINEのメッセージは増える。
〈赤澤さんは今日、何を食べました?〉
そう言われて、キッチンのシンクに置かれたままの、デパ地下総菜の空のプラスチック容器に目をやった。
〈家にある残りもの、それを適当につまんで〉
〈よくないなあ、医者の不養生ですよ……。それより、いつがお暇ですか? この前送った店で行きたいところありませんか?〉
次々とたたみかけるように言葉が表示される。懐かれてしまっている、というのが私の最初の公平に対する感情だった。年下の男に懐かれている。結婚直前でダメになった若い男になぜだか懐かれてしまっている。彼は寂しいのだ。
〈いちばんのおすすめの店にしてよ〉
慣れない手つきでぽちぽちと文字を打ち、そう返すと、
〈かしこまりました!〉と、ハッピを着たクマの動くスタンプがすぐさま送られてきた。自分が笑っていることに気づく。そのことに驚いた。玲が大学に入って家を出て、この部屋に一人でいて、笑ったことなどほとんどなかったのではないか。そう思っている間にも、日時や場所を確認するメッセージが次々と送られてきて、しつこいなああ、と笑いながら、スマホをソファの上に放った。窓を締め切ったなんの音もしないマンションの部屋で、スマホだけが着信を知らせる音を放つ。鏡面の湖のような生活のなかに、ぽん、と小石が投げられ、その波紋が広がっていくようなそんな気がした。
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