公平が選んだのは、四谷にあるインド料理屋だった。
 クリニックが休みの木曜日の夜。その日は公平も早く会社を出られるという。インド料理屋なんてここ何年も行ったことがない。バターチキンカレーの鍋には、バターの塊がいくつも溶け込んでいるのだ、と聞いてから恐ろしくなって口にできなくなった。何を着ていくか迷ったが、佐藤直也に会うわけではないのだから、と、シンプルな黒いニットにデニムを選んだ。
 指定された店のドアを開くと、公平が店の奥から手を振っている。私も軽く手をあげた。会社帰りなのだから当たり前だが、この前見たときよりは幾分シックなスーツに身を包んでいた。年上の自分に会うために、そのスーツを選んだとしたら、お互いに歩み寄ろうとしているのか、と思っておかしくなった。私は公平の向かいの奥の席に座った。
「何か食べたいものあります?」と公平がメニューを私に向けて広げる。正直なところ、メニューを見ただけでおなかはいっぱいになりそうだった。
「おすすめの店なんだから、おまかせするよ」
「食べられないものとかは?」
「まったくない」
「お酒も大丈夫ですよね?」
「もちろん」
「インドビール、うまいんですよ」
 そう言うと、公平が満面に笑みを浮かべながら、手をあげて店員を呼んだ。
「じゃあ、これと、これと……」
 そんなに二人で食べられるだろうか、というメニューを公平は選んだ。すぐさまビールが運ばれてきた。公平が私のグラスにビールを注ごうとする。私はそれを手で制した。
「ごめんね、お酌されるのも、するのも嫌いなんだ」
「ああ、そうでしたっけ、じゃあ」と気にする様子もなく、自分のグラスにビールを注いだ。
「キングフィッシャーって言うんですよ。ちょっとタイのシンハーにも似ているかな。インドに行ったとき、こればっかり飲んでました」
 自分で注いだビールを一口飲んだ。さっぱりとした甘口で濃厚なインド料理に合うだろうと思った。
「おいしい」
「でしょう!」
 うれしそうな公平の笑顔にやっぱり息子の顔が浮かぶ。男の子の承認欲求というのはいったい何歳まで続くのか。
「仕事でインドに行っていたの?」
「いや、僕、学生時代はバックパッカーで、香港、マカオ、バンコク、マレーシア……」
「シンガポール、カルカッタ……」
「なんでわかるんですか?」
「沢木耕太郎の『深夜特急』読んで、バックパッカーになったクチでしょう?」
「そうです! 赤澤さんもまさか」
「学生時代はそんな暇はなかったよ」
 なぜ、公平の旅路がわかったのか。元の夫がそうだったからだ。けれど、それは言わなかった。自分と出会う前、元の夫は世界各地を旅していた。自分とまったく違う世界に生きている彼に惹かれた。夫が西新宿で開いた個展にふらりと立ち寄ったのが、彼との縁の始まりだった。ほどなくしてつきあいが始まり、いつしか体を交わすようになり、腕枕をすると、彼はいつも今まで旅していた世界の話を聞かせた。自分ももうそこに行った気持ちになっていた。つきあっている最中にだって、インドにいってくる、と二ヵ月いなくなったこともある。それが、いっしょに住むようになってからは、彼は旅をしなくなった。旅の写真だけでは食べられないとわかったのか、彼は商業写真にシフトした。そして、玲が生まれてからは、家事と育児に埋没し、家の外には出なくなった。ジョン・レノンだって、ハウスハズバンドをしていたのだから。そう言って自分を納得させているようにも思えた。旅に出なくなって彼は水が滞るように濁っていったのではないか。
「赤澤さん……」
 そう言われて顔をあげた。
「大丈夫ですか?」
「え、なにが」
「急に黙ってしまったから」
「ああ、ごめん。昨日、クリニックで色々あったものだから、そのこと急に思い出しちゃってね」
「だけど、すごいなあ、自分ひとりでクリニック開くって」
「私のクリニックじゃないもの」
「え?」
「私は雇われ院長。雇い主がいるんだよ」
「……そう、でしたか」
「あなたと同じだよ。サラリーマンと変わらない」
 そうは言っても自分が佐藤直也からもらっている金額を聞いたら、彼の表情は途端に曇るだろうという気がした。彼のもらっている給与の何倍になるのか。