芥川賞&直木賞候補作家・窪美澄さんの新刊『私は女になりたい』の刊行に先駆けて、期間限定で連載掲載! 毎週水曜日更新・全7回にわたってお届けしてきました。本日が先行公開部分最終回です。

<あらすじ>主人公の奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきたけれど、事故のように、十四歳年下の男性患者と恋に落ちます。実は、奈美はクリニックの雇われ院長に過ぎず、佐藤という謎のパトロンがいるのです。パトロンやクリニックのスタッフ、息子の手前、秘めた恋のはずでしたが……。
 
 

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『私は女になりたい』窪美澄

(七)
「先生、あの……」
 そう言って下田さんが声をかけてきたのは、ランチ前の診療をなんとか終え、診察室でコーヒーを口にしていたときだった。
「少し、お時間いいですか?」
「もちろん」
 私はそう言いながら、患者さん用の椅子を彼女に勧めた。笑顔を保ちながら、私はかすかに緊張していた。彼女がクリニックをやめたいと言い出すのではないのか、と思っていたからだ。
「この前、変なこと言ってすみませんでした」
「え、いつのこと?」私はしらを切る。
「ほかのクリニックで働きたい、とか……」
「ああ、そういえば、そんなこと言っていたね。どうなった?」
「あんなこと言って申し訳ありませんでした。私はこのクリニック、辞めたくありません」そう言って目を伏せる。
「私、柳下さんや先生がうらやましくて……」
「……うらやましい?」
「柳下さんも先生も、結婚をしてお子さんもいらっしゃいます。そのうえ、お仕事もされていて、いわゆるリア充じゃないですか」
「バツイチでも?」
 冗談で言ったつもりだったが、彼女は笑わなかった。
「私、婚活がうまくいかなくて、もやもやしていたんです。あのとき」
「ああ……」
「私、早く結婚したいんです。子どもが欲しいんです。時々、このままでいいのか、とずいぶんあせって。遅くても三十前には絶対に結婚したいし、出産もしたい、仕事も続けたい。だから、柳下さんがうらやましくて、うらやましくて……。それで、あのとき、ずいぶん、ひどいことを柳下さんに言いました。柳下さんの仕事をフォローしているのは私だって。私だって自分が柳下さんほど、いい施術者じゃないことを知っています。だけど」
「下田さん。あなたはきちんと仕事しているよ。あなたがいるから、ってここに来る患者さんも増えている。勤務時間を短くしてほしいのなら、そうするし、給与の面でも、オーナーと相談すれば少しは譲歩できると思う」
 短い沈黙が訪れた。クリニックの建物の遠くどこかで行われているらしい道路工事の音がかすかに聞こえた。オーナーと相談すれば譲歩できる、というのは正直に言えば嘘だ。私が頭を下げて下げて、下げ続ければ……。
「本当は……そんなことじゃないんです」
「ん?」
「ここにいらしていた患者さんに、連絡先を聞かれて、おつきあいしていて、それがだめになって……。結婚前提で、私はつきあっていたつもりだったんですが……」
 そのとき、頭に浮かんだのは業平公平の顔だった。相手は彼なのではないか。そう思った瞬間に、そんなはずはない、という思いと同時に、自分の心のなかで暗いものが生まれた。公平にお似合いなのは、下田さんのような若い女だ。それが嫉妬、だと気がつくまでに時間がかかった。嫉妬などという感情をもう忘れかけていた。
「薄毛治療の患者さん?」
「いいえ、違います。ニキビ痕のレーザー治療で半年前くらいから通われていた方です」
 そのあとに下田さんが名前を言った。姓に聞き覚えがあるが、顔は思い出せない。
「そのことを柳下さんに知られて、咎められたんです。あの日……。患者さんとつきあうな、と」
「そうだったの……」と深く頷きながら、私は心のなかで安堵のため息をついていた。
「まあ、でも、柳下さんが言うように、患者さんとつきあったらだめ、なんていうルールはここにはないから」
「ですよね」下田さんの顔がパッと明るくなる。
「ただね、そういうことをあからさまに認めるわけじゃない。こちらから積極的にアプローチをかけたり、そういうのは、やっぱりね……患者さんの個人情報をこちらは抱えているわけだし……そこは気をつけてもらわないと」
 どう言っても言葉が濁る。
 そもそも、下田さんの言っている、連絡先を聞かれて、という話は本当なのか、確かめる必要があるのではないか。カルテの個人情報の管理をもっと厳重にすべきではないのか。翻って、自分の身を振りかえる。元患者とはどうなのか。元患者である公平と食事をしたりしている自分はどうなのか。それがクリニックのスタッフに知られたらどうなるのか。スタッフからの信用だけは失いたくない。その日が来ることを考えたくはなかった。
「とにかく辞めないでくれてよかった」
 そう言うと下田さんは頭を下げて、診察室を出て行った。

 下田さんの話は、柳下さんに確認しておいたほうがいいだろう、と思い、私は翌日、どのスタッフよりも早く出勤してくる柳下さんを診察室に呼んだ。この前の言い争いの話、昨日、聞いた話を簡単に話す。
「一度や二度じゃないですよ」
 眉間に皺を寄せて彼女が吐き捨てるように言った。
「男性の患者さんがこのクリニックに来るようになって、そうなったのは、一度じゃないです。先生の問診のあと、施術の説明は私たちがするじゃないですか。そういうとき、彼女のほうから……」
「自分のほうから、って言うこと?」
「その現場を、直接見たわけじゃないからわかりません。だけど、たぶん……」
 柳下さんははっきりしたことは言わない。
「患者さんと今もつきあっている、というのは本当です。それは私も耳にしましたから」
「でも彼女、もう別れたって」
「それはたぶん、別の人です」
 きっぱりと彼女は言った。曲がったことが大嫌い、という彼女の性格は把握している。施術者としては有能だが、融通がきかない、という欠点にもなりかねない、とは感じていた。
「恋愛禁止令でも作ろうか……」
 私は冗談で言ったつもりだったが、彼女は笑いもせずに深く頷いた。本当のことを言えば、クリニックのスタッフと患者さんが恋愛することはあり、だと私は思っていた。それくらいのことがあったっていいじゃないか。若い女性を雇っているのだから。けれど、そうした考えの裏に、元患者とはいえ、公平と食事を共にしている自分のうしろめたさがあったのは事実だ。
「そうやって、患者さんとぐずぐずになって、評判を落としたクリニックも知っています。男性院長が患者に手を出したとか」
 耳が痛かった。自分のことを言われているような気がした。それゆえに、柳下さんには、公平とのことを絶対に知られてはならない、と私は思った。加えて、気になっていたことも聞いた。
「下田さんからは別のクリニックから引き抜きの話が来ている、ってことも聞いたんだけど……」
「先生、お言葉ですけれど」私は身構えた。
「先生は、少し、スタッフを信頼し過ぎていると思います」
「どういうこと?」
「別のクリニックからの引き抜きは、私にも成宮さんにも来ています。この業界ではありがちなことです。私はこのクリニックをやめる気はありませんけど」
「けど?」
「ここよりも良い条件を差し出されたら、私だってわかりません……」
 自分の眉間に皺が寄るのがわかった。
「今の待遇に問題がある?」
「いえ、私はありません。給与も、時短勤務のことだって、先生には理解していただいているし……それでも」
 柳下さんが言葉を続ける。
「少しでも良い待遇のクリニックを見つけたら渡り鳥のように飛んでいってしまう。それが美容皮膚科の、クリニックの世界です。次から次へと、違うクリニックを渡り歩くスタッフなんて珍しくはありません。先生だって、そのことはご存じでしょう?」
 言われなくてもわかっている。だから、佐藤直也に頭を下げて、ここのスタッフの給与もぎりぎりまで上げてもらっている。それで、彼女たちとの信頼関係も、ふだんの治療のフォーメーションもうまく回っていると思っていた。それだけでは彼女たちをつなぎ止めておくことはできない、ということか。
 今のスタッフが育つまでの労力を思い出したら、めまいがした。治療や接客の指導、ひとつのクリニックとして名を知られるまで、長い、長い時間をかけて、今がある。今のスタッフが一新されたら、また、それを一から始めなくてはならない。いったい、どうすればいいと言うのだろう。
 クリニックのドアが開いて、おはようございます、という成宮さんの声がした。
「その話はミーティングであげたほうがいいかな?」
「いいえ、ただ、先生のお耳に入れておいたほうがいい、という話ですから。表面上は皆、うまくいっていますし」
 そう言って柳下さんは頭を下げ、診察室を出ていった。
 表面上は、という言葉が鼓膜に残る。女子校の教師にでもなった気分だった。スタッフ三人だけのこぢんまりとしたクリニック。スタッフが少ないのだから、大きな問題など起きないと思い込んでいた自分の甘さを知った。
 スマホが震える。見なくてもわかった。公平からのLINEだ。
〈松江城って黒白のコントラストが、めっちゃかっこええ〉
 この人はいったい仕事をきちんとしているのだろうか、と思いながらも、私の指はなんと返信をしようかと迷っている。自分のなかで今の今まで張り詰めていた空気が、公平のLINEで抜けていくような気がした。結婚がダメになった公平の話を聞き、上から話をしているつもりだった。けれど、実際のところ、公平に支えてもらっているのだ、とはっきりとわかった。その思いが、好意という色を帯びた感情に変わっていくのに、それほどの時間はかからなかった。

 公平とは二週間に一度のペースで食事をしていた。季節は冬を迎え、町はクリスマスムードで浮かれていた。どこで食事をしますか? と聞かれたとき、私はできるだけクリニックから遠く離れた場所を選んだ。スタッフの誰かに、彼と会っているところを見られることだけは避けたかった。今の、私と彼との関係を誰かに説明するのは難しい。彼を誰かに紹介するのならば、年齢の離れた友人、ということになるのだろうか。気がついたときには、彼はもう、自分の元婚約者の話をしなくなっていた。もう気がすんだのだろう、と思っていた。その代わり、自分の仕事や会社の話、営業で訪れた地方の町の話をするようになった。私はといえば、クリニックでは絶対にできない、仕事の不満話を口にするようになっていた。スタッフのこと、患者さんのこと。そんな話ができる友人もいなかったのだから。彼は話を聞くのがうまかった。それが彼のする営業という仕事に関係しているのかもしれない、とも思った。ガス抜き、をしているのだ、と思いながら、私は彼を頼り、弱音を吐いた。
 その日も彼が選んだトルコ料理の店だったと思う。
「LINEは迷惑やない?」
「ぜんぜん。むしろ、楽しみにしてる。この年齢になると、あんなふうに気軽にLINEを送ってくれる人なんていないからね。ビジネスの話ばっかりで」
 本音だった。
「この年齢て、赤澤さんよく言わはるけど、そういうの僕よくないと思うねん。僕、赤澤さんと話していて、赤澤さんが自分より年齢がずいぶん上だ、なんて感じたこと、ほんまないねん」
「そうは言っても、私はあなたより十四も上なんだよ」
「へえ……それが何か? 関係あるやろか。僕は赤澤さんと話していて楽しい。最初は……」
「最初は……?」
「今やから言うけれど、少し緊張していた。一所懸命に医大で勉強しはった院長先生やもん。……雇われてる、ってそれこそ自虐的に赤澤さんは言いはるけど、立派なもんや。一人親方と変わらん」
「一人親方」その言葉に私は笑った。
「そういう人がいちばんおもしろいんや。仕事で話していても、ふだんの話でも。みんな自分の道を自分で見つけはって、仕事に精出しとる。僕、人と会いたいから営業の仕事しとるんやろうなあ……」
「いろんな町にも行けるし」
「まあ、それはそうやな」彼が笑う。
「でも、そうやって仕事で行った町でいろんなもの見るやん。最近は赤澤さんに見てほしいのよ。同じもん見てほしいんや。また、赤澤さん、まじめやから仕事で忙しいはずなのに、ちゃんと返信してくれはるやろ。それがうれしい」
 その言葉に、元の婚約者はそうではなかったのだろうか、とふと思った。近頃は彼は元の婚約者のことを滅多に口にはしない。それと反比例するように、私のなかで、彼女の存在が大きくなっていった。楽しい食事を彼とすれば、彼女は何回、同じような時間を過ごしたのかと気になった。会ったことのない彼女に対して、憎しみに近い気持ちが浮かんでくることもあった。彼にすすめられるまま注文したトルコの蒸留酒、アニスの香りのするラクという酒を舐めるように口にしながら、今日の彼はよく喋ると、客観的に思ってもいた。自分もかなり酔っているのか、店内のざわめきが、かえって心地良く耳に響いた。
「赤澤さん、僕とつきあいませんか?」
 彼が私の手に触れていることに気づいたのは、その言葉が耳をかすめてから、ずいぶん経ったあとだった。
「僕は、赤澤さんのことが好きや。僕は赤澤さんとつきあいたいと思っとる」
 一人の女として心が動く、という経験を長いことしていなかった。心のなかにある氷山のようなかたまりが、ぐらりと動いた。そんなことを男から言われるなんて、いったいどれくらい経験していなかったのか。
「随分と酔っているんじゃないの? あのねえ……私はあなたより十四も上なんだよ」
「それが何か関係ありますか? 赤澤さんはいやなんか? 僕とつきあうこと、赤澤さんはいやなんか?」
 彼の強い視線が私の目を離れない。この人は若いのだ。この人は今、ひどく酔っぱらっている。からかっているのかもしれない。自分より十四上の女を。
「いやや……」
「…………」
「……ない」
「やった!」
 彼がラクのグラスをあおった。全面降伏という言葉が頭に浮かんだ。彼の言葉を真似て、からかって言ったつもりだった。ひどく口のなかが乾く。いや、逆に彼にからかわれているのだと思った。
「あの、本気?」
「こんなこと本気やなく言えますか?」
「だからさ、あなたは結婚がだめになって、ちょっと自暴自棄になっているんじゃないの? そういう気持ちでそう言われたのなら、私もかなりダメージが大きいんだけども」
「僕のなかではあれは、もう、ぜーんぶ終わったことや」
 きっぱりと彼は言った。その言葉で少し胸が軽くなったのは事実だった。
「赤澤さんのほうこそ、なんだかんだと、元夫が……って言わはる。赤澤さんのほうこそ、終わってないのと違います? 僕は赤澤さんが元夫が、元夫が、って言うたびに、なんだか自分が傷ついていることに気がついて、それで……自分が」
「私はあなたのことが好きだと思う。私はあなたとつきあいたいと思っている」
 自分の発している言葉なのに、自分の言葉じゃないような気がした。よくも、こんなに恥ずかしいことが言えたものだ。けれど、そんな気持ちより先に言葉が口をついて出た。
「赤澤さん、ずっと僕といっしょにいて」
 犬の顔で彼は言った。レコード会社の犬のマスコット。蓄音機に耳を傾ける犬の。いっしょに、という彼の言葉の真意は知らない。ずっと、という意味すらわからなかった。けれど、私は頷いた。
 勘定を済ませて店を出る。いつもは折半していた勘定をその日、彼が出した。
「今日は僕が」
「じゃあ、次は私が」
「そんな規則みたいに決めなくてもええやないですか。出したいほうが出す。今日は僕が出したいから出す」
「……まあ、そうだね」
 つきあう、と言ったものの、それがどういうベクトルで前に進むのか私にはわからなかった。普通の恋人同士のように、体を交わし、休日には同じ時間を過ごすのか。それが今の自分にできるのか、という疑心もあった。
 帰り道、彼はごく自然に私の手を握った。これがつきあう、ということか。彼の手は熱かったが、汗などかいていなかった。私は彼の親指を握った。そのとき思い出した。こうして男と手をつないで歩くのなんて、父以来なのではないか。元夫と手をつないで歩いたことなどない。ほかの恋人ともそうだった。手をつないで歩く、ということが彼にとってはつきあう相手とまずすることなのか。そう考えたら、彼の若さに目がくらんだ。けれど、それが新鮮でもあった。彼と、十四も年下の彼と手をつないで歩いていることが、おかしくもあった。スタッフや患者さんや元の夫や玲に見られたらなんと言い訳すればいいのだろう。けれど、なるようになれ、という自暴自棄な気持ちがあった。
 ふいにビルの隙間に連れ込まれる。口づけはあっという間だった。目を閉じる暇もなかった。彼の乾いた唇が一瞬触れただけだった。そうして、彼は私を抱きしめた。こうやって抱きしめられるとき、自分の胸が彼の体との間にかすかな距離を作ることなど、ずいぶん長いこと忘れていた。私という人間が女としての輪郭を再び持ち始めている。彼の身長はそれほど高くはない。私は彼の肩に自分の頭をのせた。いつか、彼が家に来たとき、彼が使った毛布からした干し草のようなにおいがした。元夫とも息子とも違う。若い男のにおいだった。
「目を閉じなかった」
「え?」
「今、目を閉じなかったでしょう。何かほかのことを考えていた」
「地球の」
「え?」
「地球の北極と南極が入れ替わるようなことが自分に起きたんだって」
「北極と南極? どういうこと?」
「それくらい驚いているって、こと。それくらい、うれしいってこと」
 彼がもう一度、私に口づけをした。さっきとは違う深い口づけだった。彼の舌の甘くて苦い味を感じながら、私はもう目を開くことがなかった。
「あのね、今度、家にごはん食べにおいで」
「えっ」
「毎回、外で食事するのももったいないじゃない。家のほうがゆっくりできるでしょう」
「そんな夢みたいなこと……」
「大げさだなあ、私は料理が下手だし、たいしたものも作れないけれど……」
「ええんやろか」
「だって、私たちつきあっているんでしょう」
 そう言いながら、再びつないだ手を私は彼の前に上げて見せた。彼がほんとうに心からうれしそうに笑った。その微笑みが、私の心をせつなさで満たし、風に流される雲のようにちぎっていこうとする。
 好きな人に自分の作ったものを食べさせたいだなんて、そう思ったのは、もういったいいつくらい前のことなのだろう。彼の存在は氷河の下で眠っていたマンモス象のような恋愛の気持ちを掘り起こし、溶かし、蘇らせようとする。自分の胸の鼓動を感じる。女。その言葉はふいに私の脳裏に浮かび、羞恥という感情を私の心に焼きつけていく。彼の前にいる私は、美容皮膚科クリニックの雇われ院長ではなく、大学生の息子がいるバツイチの母親でもなく、ただの一人の女だ。そういう自分が、自分の表層に浮かびあがり始めていることが、たまらなく恥ずかしい。
 彼が私を強く抱きしめた。いつか裸で彼と抱き合う日が来るのだろうか。その日が来ることが恐怖でもあり、同時にそれは今夜でもいいような気がした。
「来週」彼が口を開く。
「来週の日曜日」
「ん?」
「僕、赤澤さんの家に行く」
 彼が宣言するようにそう言った。
「わかった」
 そう言いながら、彼に最初に何を食べさせればいいのだろうか、と私はすでに悩み始めていた。彼は私の手を取り、歩き始める。彼がそれを臆する様子はない。私の手を、私の手の感触を彼がどう感じているのか、それだけが心配だった。大通りに出て、彼が手をあげてタクシーを止める。
「僕、明日、早朝からまた、四国なんや。赤澤さんも明日、仕事やろ。だけど、日曜日は大丈夫やから」
 そう言って私一人をタクシーに乗せると、
「安全運転でお願いしますね」とタクシーの運転手に声をかける。ドアが閉まる。彼が手をあげて微笑む。私は後ろを振りかえったまま、彼の姿が視界から消えるまでいつまでも見ていた。せつなさと、愛しさが溢れた。一人の男を好きになった。好き、とは、こんなふうな感情だったか。私の母が、その人生の記憶のほとんどを失ってしまったように、私もいつか、こんな感情を、こんな夜を忘れてしまう日が来るだろうか。いや、絶対に忘れるものかと心に誓った。つきあう、と決めた夜に、なぜそう思ったのかは不思議だが、これが自分にとって最後の恋になるだろう、という強い予感があったからだ。

 

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ぜひ続きは9月14日刊行予定の『私は女になりたい』でお楽しみください。


ミモレインタビュー
「【小説家・窪美澄さん】40代の先に、ご褒美のような50代が待っている」>>

 

『私は女になりたい』
窪美澄 予価 本体1600円(税別)(2020年9月14日刊行予定)

主人公の赤澤奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきた奈美だが、14歳年下の男性患者・公平と恋に落ちて……。


カバー画像/
O'Keeffe, Georgia (1887-1986): Abstraction Blue, 1927. New York, Museum of Modern Art (MoMA). Oil on canvas, 40 Œ x 30' (102,1 x 76 cm). Acquired through the Helen Acheson Bequest. Acc. n.: 71.1979.© 2020. Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence