コロナ危機で様々なことが変わっているにもかかわらず、回さなくてはいけない日常は日常として存在している。誰の心のなかにも、「喜怒哀楽」のどれとも言えない、グレーで微妙な感情が渦巻いているのではないでしょうか。
そんなもやもやした気持ちを見事に言語化し、輪郭をつけてくれたのが、言葉を生業とする3人の女性でした。

あんぱん ジャムパン クリームパン——女三人モヤモヤ日記』は、神戸在住のライター・青山ゆみこさんと、吉祥寺で働く校正者の牟田都子さん、琵琶湖のほとりで暮らす翻訳家の村井理子さんが、緊急事態宣言が発表された4月から6月にかけて往復書簡スタイルで行った連載をまとめたエッセイ。

「ねえ、こんなことってあるよね?」

それぞれの名前をもじって“菓子パン娘”となった3人のやりとりは、いつの間にか押し殺していた不安や戸惑いをそっと掬い取ってくれるようで、「私だけじゃなかった」「ひとりぽっちじゃないんだ」という安心をくれました。

「“人生”が頭の上に落ちてくるのがこわい」アラフォー世代がコロナで感じた恐怖_img0
 


「わたし」の前に「わたしたち」でいなきゃいけない「圧」


人と会う機会が極端に減り、電車に乗ることもほぼなくなり、自宅とその周辺だけがわたしの世界になった。

紀元前/紀元後のように、コロナ前/コロナ後に「時間」が線引きされ、その 「コロナ後」の世界はものすごく小さな世界だった。

コロナ後の世界って、なんだか時間の感覚がないんですよね。

最近だと、今日が何曜日かわからなくなることも多くて、だんだん昨日と今日と明日が溶け合っていくようにも感じます。そのことにどこか不安になる。何が不安なのかわからないのですが。

とにかくいまは「コロナ前」のことが、すごく遠くに感じられます。別の世界のことのように。

端的にわたしたちの「日常」が大きく変化したのでしょうね。

と書いて、あのね、こういうふうに『わたしたちの「日常」』ってひと括ってしまうと、全然「わたしたちの日常感」がなくないですか。

わたしは「わたしたち」じゃない。
わたしは「わたし」として生きている。

はずなのに、突然、「わたしたち」にさせられたような、居心地の悪さというか、 お尻の据わらなさがこの数週間あります。

そういうことに、なんだかむしゃくしゃしちゃう。
 
(青山ゆみこ)
 

外出自粛期間中の4月下旬に青山さんが書かれた文章を読み、ずっと感じていた違和感の正体がピタッと言葉になった気がしてスッとしました。

「いま、『みんなで力を合わせて』とあちこちで見聞きします。でも、その言葉を目にするたびに、個々人のいろんな『苦しさ』が、巨大な掃除機みたいなものにぎゅいーんと吸い上げられて、紙パックの中でくるくる回転しているうちに、もやもやした灰色の『みんなの苦しさ』に、いつのまにか変換されてしまうように感じるんです」
青山さんの手紙に対し、牟田さんもこのように書かれていました。

ときに“わたしたち”は同調圧力となり、じわじわと心を蝕んでいたのかも……と、おふたりのやりとりを読んでハッとさせられたのです。