月刊誌「JJ」連載をまとめた『The Young Women's Handbook~女の子、どう生きる?~』では、20代の女性に向けて「自分として生きること」を語りかける作家の山内マリコさん。#MeTooの時代にありながら「女性の分断」も時として目の当たりにする今、ミモレ世代の女性たちが娘や後輩たちにできることはあるのでしょうか。その多くの著書で「女友達の友情」「女性の連帯」を描いてきた山内さんが考える、大人世代のあり方とは?

山内マリコさんインタビュー前編「雑誌が提唱する『正解』は絶対じゃない」はこちら>>

 

山内マリコ Mariko Yamauchi
作家。1980年生まれ。2012年『ここは退屈迎えに来て』でデビュー。主な著作に『選んだ孤独はよい孤独』(河出書房新社)、『あたしたちよくやってる』(幻冬舎)など。2021年に『あのこは貴族』(集英社文庫)の映画化を控えている。ファッション好きで他エッセイに『買い物とわたし』(文春文庫)などがある。

 


「女友達との友情を書きたい」と言ったら鼻で笑われたことも


別のインタビューで「R18文学賞」を受賞した後、これから何を描くかという部分でも「恋愛至上主義」的な壁があったと伺いました。そのあたりをお聞かせいただけますか?

山内マリコさん(以下、山内さん):2014年の「アナと雪の女王」以降、メジャー作品でも、王道のロマンティックラブ以外のテーマがすごく増えました。最近は「シスターフッド」って言葉が普通に使われたり、海外ドラマではフェミニズムが主流です。

だけど私がR-18文学賞を受賞した2008年当時は、まだ女性同士の友情を描いた作品は少なかった。担当編集者さんに、「女友達との友情を書きたい」と言ったら、ちょっと鼻で笑うような感じで「女性作家には恋愛ものを書いてもらいたい」と諭されました。今なら炎上案件ですが、当時は小説家が描くテーマとして、女性の友情はかなり軽く見られていたんです。
でも私には、異性との恋愛より女友達との友情との方がはるかに感動的だったし、物語に書きたいと思えた。自分の根幹を作った経験だったので、そこは譲れないところでした。

誰かそういう具体的な存在がいらしたんですか?

山内さん:大学時代の親友です。友達はそれまでもいたけれど、本当の意味で気が合うっていう感覚をはじめて味わった気がしました。彼女と腹を割って語り合い、お互いを鏡にしながら、自分という人間が定まっていった手応えがありました。なので、自分のベースにあるのは友情なんですね。もし異性との恋愛がベースだったら、まったく別の人間になっていたと思います。もちろん悪い意味で。

例えば男性との関係では、どんな部分が「悪い」と思いますか?

山内さん:相手と対等な関係を築きにくいところですかね。恋愛は、相手をより好きな方が必然的に立場が弱くなるし、感情の駆け引きなどゲーム要素も強い。一般的な、男らしい男性と女らしい女性の組み合わせでは、どうしても女性がスポイルされてしまう。女性が不利になる条件がいっぱいそろってるのに、女性の方が「愛こそすべて」な価値観を植え付けられて育つわけで、そりゃあ生き辛いはずです。

山内さんがこうした「女性の生き辛さ」や「フェミニズム」に目覚めたのは、何かきっかけがあったんですか?

山内さん:20代後半から少しずつ女性であることの危うさを感じるようになって、読書の傾向が変わりました。特に、結婚をリアルに考えるようになると、どうしても女性差別と向き合うことになる。決定的だったのが、上野千鶴子さんの『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』を読んだことです。それまで薄いモヤがかかっていた視界が一気にクリアーになりました。

自発的にフェミニズムに目覚めていって、「こんなカッコいい考え方があったのか!」と夢中になったので、世の中にはフェミニズムに拒否反応がある人もいることを、あとで知りました。少し上の世代の女性はバックラッシュを味わっていたりするから、私が無邪気にフェミフェミ言ってるのを見て、ヒヤヒヤすると言われたこともあります。ツイッターの「フェミ叩き」を見て、なるほどこういうことを言われた経験があったんだなぁと。

言ってることは「フェミニズム」なのに、「フェミニズムを主張する人は嫌い」というような人もいますよね。特に若い世代には多いようにも。

山内さん:フェミニズムやフェミニストって言葉にネガティブなイメージ込みで出会うと、そうなってしまうのかも。いつだったか、学校で配られた副読本かなにかに、フェミニストからの抗議を受けた広告、みたいな写真が載っていました。もちろん、それを正しく教えられる先生もおらず、詳細な記述もないので、印象としては「女が抗議した」だけ。しかも私は、抗議する女は嫌われるんだと受け取った記憶があります。あれじゃあイメージが悪いはずだよと、あとあと気づきました。

去年、田嶋陽子さんにインタビューさせていただいたとき、そのことを聞いたんです。フェミニズムという言葉に抵抗がある人に、どうやって伝えていけばいいんでしょうと。そしたら「使いたくないなら、使わなきゃいいじゃん!」って(笑)。大事なのは名前じゃなくて中身だからって。今回の本でも、考え方の根幹にあるのはフェミニズムだけど、あえて前面には出さずに書きました。先入観なしに、軽い気持ちで手にとってもらえればと思って。

でもその両者がつながればいいのにとも思うんですよ。考え方としては同じ方向を向いているのに、どうして繋がれないのかなと。

山内さん:たとえば最近、『82年生まれ、キム・ジヨン』(現在公開中)にその難しさを感じましたね。ポスターや予告編のぬるさが、原作ファンの逆鱗に触れてしまって。本編も、主人公が直面してきた女性差別を丁寧に描いた作品になっているのですが、支持を集めた原作小説とは真逆のアプローチで、がっかりしたという意見をたくさん見かけました。個人的には、どんな映画になっていても、これは応援しなきゃダメなやつと思ったけど、全員でそんな共同戦線を張れるわけではないので、あのキム・ジヨンですら分断や対立が起きてしまう。一枚岩になったり、全員で足並みをそろえるときの「根回し」は、男性の方が得意ですよね。

その一方で、世代間の「トーン・ポリシング」(正しいことを言っていても、言い方が悪いと断罪されてしまう傾向)の問題も感じます。例えば、今の40・50代女性は「夫も家事を手伝うべきだ」と思ってはいるけれど、そのためには「手伝った夫を褒めてあげることが大事」みたいな感覚がありますよね。でも20代は「手伝うのが当然なのに、なんでご機嫌までとらなきゃいけないの?」という感覚で、上の世代の「どんなに正しくても、言い方が悪ければ受け入れてもらえない」は議論のすり替えとしか思えない。でもセクハラなども上の世代が「笑顔で対処」してきたから、真剣に受け止められてこなかった、という歴史もあるわけで。

山内さん:女性はそれだけ、世代によって与えられたものが違うってことですよね。ある世代が闘って、一つコマを進める。でもそのコマに進めるのは、自分じゃなくて次の世代なんです。自分たちが進めたコマには、自分たちは進めない。闘った人が捨て石になるような面があります。だけど私がフェミニズムでいちばん感動的だと思うのは、自分の下の世代が、自分より前進できることなんです。個人ではなく、女性全体でバトンをつなげながら前に進んでいて、自分はその連帯の一部であると思える。それって男性に生まれては決して味わえない、特別な連帯感です。ただ、自分が満たされていないと、自分より恵まれた世代をやっかみたくもなってしまう。だからこそ、フェミニズムを実践する上で、まず自分を幸せにすることが大事なんだと思います。

世代間に分断はつきものだけど、一つだけ言えるのは、次の時代のスタンダードになるのは、若い世代が思う「正しさ」だということ。理解できなくても、そうなんです。去年、再放送で朝ドラ「おしん」を見ていたんですが、田中裕子さんが演じていた20代からアラフォーにかけてのおしんは、自分で自分の人生を切り拓くだけあって、革新性があるキャラクターなんです。だけど戦後、中年期のおしんを乙羽信子さんが演じるパートになった途端、ものすごい保守的になって、「同じ人物なのか?!」と戸惑うレベルの、とんでもない老害になっていたんです(笑)。おしんが苦労していた時のドラマはたしかに面白かったけど、後半は「私はこれだけ苦労したんだ」としか言わなくなる。こんなに人間を描ききったドラマはないですね……。

個人の経験から得られる教訓って、一代限りのものなのかもしれません。ついつい固執してしまうけど、それを人に押し付けるのは、足を引っ張ることになるんだなぁと。若い人の邪魔をしないためにも、自分をこまめにアップデートしておかねばと思いました。

山内マリコさんインタビュー前編「雑誌が提唱する『正解』は絶対じゃない」はこちら>>

 

『THE YOUNG WOMEN’S HANDBOOK ~女の子、どう生きる?~』

山内マリコ ¥1400(税別)

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【目次から】
それは誰のためのファッションか/結論、女っぽいを目指さなくていい!/誰かに憧れる、という束縛から自由になる/インフルエンサーにはなれなくても/自分の舟を自分で漕ぐ/旅に理由なんてなかった 他

取材・文/渥美志保
構成/川端里恵(編集部)

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