アメリカ大統領選挙が混乱する中、私が気になっていたのは、ストッキングの会社「ATSUGI」による、炎上したキャンペーン「#ラブタイツ」の問題です。ご存じない方に説明すると「イラストレーターに描いてもらった“タイツ姿の女性”のイラストを、ツイッター公式アカウントがRTする」というもの。そのイラストの「一部」が「タイツ姿の女性を“性的に”消費するものとして扱っている」と批判を受け、謝罪→中止となったものです。 

 

まずあらかじめ言っておきたいこと。イラストには老若男女の誰が見ても「普通にカワイイ」と感じるものもあり、例えばこちらの朝日新聞の記事で取り上げている画像なんかは全然問題とは思いません。まあ同紙が「こんなキワどいものが!」という画像を拡散するわけにいかないから無難な画像を選んだんでしょうが、そういう状況を逆手に取って、このキャンペーンに不快感を示した人を「何にでも文句つけるクソフェミ」と罵りたい人もいるわけで、そういう卑劣に私はややカチーンと来るタイプです。

 

というわけで、ここではその「一部のイラスト」の中からさらに厳選し、おそらくほとんどの女性が「タイツ姿の女性を性的に扱っている」と感じるだろうものについて、「恥ずかしげに頬赤らめたメイド服の女の子が、スカートの裾をパンツ見えるレベルまで持ち上げて、でもデニールが高めだから見えない」みたいな絵であることをご報告しておきます。もちろんこれはあくまで厳選なので、それ以外も、ローアングルとかミニスカートとかタイツ脱いでる最中で「パンツ見えそうで見えない」みたいなのは結構あります。

そうしたイラストを見て、「ちょっとエッチでカワイイ。こういうの目指したい」という女性もいれば、「オタ絵ってだけで生理的にダメ」という男性もいるでしょう。でもここでの論点は、好きか嫌いか、カワイイと思うか思わないかではなく、そこに描かれたタイツ姿の女性を見た人が「性的」な連想をするかしないか、です。


さてこれを踏まえて、改めて「#ラブタイツ」。
率直に言って私には、このキャンペーンの「広告」としての意図がさっぱりわかりませんでした。そもそも多くの女性にとってのタイツは「寒いし、ストッキングとか生足とかもう無理なんで」という時に履くものです。もちろんその際に「できればカワイイほうが」「できれば脚がきれいに見えるほうが」と思う人もいるでしょうが「タイツでセクシーな演出したい」と思ってる人は、少なくとも私の周囲では聞いたことがありません。若い頃に男性から「タイツって色気がねーよな」と言われたことがあるのですがおっしゃるとおりで、そう考えると「#ラブタイツ」はそういうイメージを覆したかったのかもしれません。つまり「寒いからタイツ」の女性消費者たちに対して「タイツって、こんなにカワイイ、セクシーなものなんですよ」ってな具合の。

ええと、でも、それならなんでメイド服?「パンツ見えそう」演出?そういうのをターゲット層の女性たちが「カワイイ」「セクシー」と思うか思わないかはひとまず置いといて、例えばそういう演出をする人/そういう演出を好む人が、これらイラスト見て「やっぱタイツだよな!」って思うのかなー?むしろ、タイツを言い訳にした、単なるエロい萌え絵になっているような……?絵を好むのは「メイド服」「パンツ見えそう」に反応する人たちでは?こうしたイメージがターゲットである女性たちに逆流し、彼女たちが「タイツ女性がいやらしい目で見られている」「ATSUGIはタイツ女性をいやらしい目で見ることを推奨している」と反応するのは無理からぬ事です。

ええ、わかります、「カワイイ、セクシーって褒めてるんだし、女性として嬉しいことでは?」と反論する人がいることは。でも「パンツ見えそうなタイツ姿=カワイイ、セクシー」という思考回路それ自体が、女性を性的に見ることが当たり前になりすぎた世界のものであり、あまりに当たり前過ぎるために、「渥美さんのタイツのスケ感って色っぽいね……」と言われた時や、無言でナメるように脚を見られた時に、女性の中にゾワゾワっ湧き上がるこの上ないキモさを、想像すらできない人々のものです。「寒いからタイツ」の女性たちに「女性として嬉しいことでは?」と聞かれても、嬉しいわけねーだろうが、としかお答えできません。そんな感じにいろいろズレすぎで、誰向けに何売ろうとしている広告なのか、さっぱりわかりません。

私個人としては、その「一部のイラスト」には「……ううわあ」と思うものの、例えば、ヲタの人たち(性別に限らず)がそこにある性的要素を「好き」「カワイイ」と表現し、限られた場で個人の喜びとして愛でることに、とやかく言うつもりは毛頭ありません。でも同じものを、それなりの発信力と影響力を持った大企業が、広く一般の消費者に対して打ち出すのはどうでしょう。

コンビニに普通に置いてあるエロ本、平気で立ち小便するオッサン、女性のバストトップが映るテレビドラマ、通学路にあるコンドームの自販機ーー昭和にはあったが令和ではほぼありえないそれらの事象と、コトはよく似ています。それらが「ありえない」になったのは、エロ本が地上から消えたからでも、人類の性欲が減退し清廉潔白になったからでもない、世の中の人権意識に対する常識、もっと言えば「建前」が変わったからです。建前というとどこかハリボテな、スッカスカのイメージがありますが、まずはそこを変えなれば人の心は変わっていかない。体罰にしてもセクハラにしても「よくない」という建前ができたことで、それまでは「いいのか悪いのか判断できない」と言っていた人たちが「よくない」に流れ、彼らが作る空気が「公の場における」一定の抑止力となるからです。特別な関係でもない女性を、性的な目でみない。性的なものを期待しない。それが今の時代の建前ーーとりあえず、現時点ではーーです。

さて最後にもうひとつ、封じて置かねばならない反論について。
こうした炎上騒動の際には、判で押したように「女性目線がなかったのか?」と批判する人がいるんですが、今回の「#ラブタイツ」ではATSUGI公式アカの「中の人」が、どうやらこれ系のオタ絵の大ファンの女性だったために、批判が機能不全に陥っているように思います。そのうち「女の目線はあった」「女vs女の問題」「男は完全な被害者」とか、とんちんかんなこといい出す人が出てきて、まったくもって困りものです。
そもそもこういう問題を「男vs女」とか「女vs女」の構図で語ることが間違ってる。男性でも、女性に対するそうした扱いを不快に思っている人はいるし、男性のみの職場でも、ちゃんと判断できるところはできるし、できないところはできません。逆に内部の女性がそこにある状況を許していても、それが「女性目線もあったし、社会的に公正」とは限りません。杉田水脈議員を見ればわかるように、女性の人権について「女性の感覚が常に正しい」なんてことは幻想です。

さらに社会への影響を考えれば、知名度を持つ人なり企業なりが「内部の女性がOKだった」ことを理由に、「問題なし」と開き直っていいはずがありません。つい最近、ニュースになったネット番組『7.2 新しい別の窓(通称:ななにー)』で再現された「昭和のバラエティ」も同じことが言えます。石橋貴明がみちょぱに繰り返した「昭和のバラエティ」的セクハラに対し、「みちょぱは、そういう番組だと説明されていたはず」という理屈を免罪符みたいに展開する人がいますが、とんちんかんにもほどがあります。

極端な言い方をすれば、みちょぱが許すかどうかなんてどうでもいい。問題は石橋貴明みたいな名前のある人のそうした行為を、ネット番組とは言え、何十万人、何百万人が見るチャンネルで放送してしまうこと。「みちょぱは許してくれたし、楽しんでた」が「女性は許してくれるし、楽しんでくれる」というメッセージになってしまう、その想像力の欠如(もしかしたら放棄)は信じがたい。笑い?ノリ?そういうふうに行われているセクハラを、こっちは巷で腐るほど見てるんで。たとえ「中の人」が許したとしても「外の人」の多くは許さない、それは「#ラブタイツ」でも明白なんですから。
 

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