私の幸せは「何もしないこと」
「……ったく、ふざけんなよ」
突然リビングのドアを開け、吐き捨てるようにそう言った夫の声に美穂は肩を震わせた。
「はぁー」
乱暴にソファに腰を下ろす夫の視界になるべく入らないように、キッチンの隅に身を寄せる。彼が不機嫌な時は反射的に存在感を消すのは、すでに習慣になっている。
早希たちと外出して以来、貴之の機嫌は悪化していた。
あの夜は楽しくてついお酒が進んでしまったこともあり、結局湊人を預けたまま実家に泊まり、表参道の家に戻るのは翌日となった。
貴之に叱られる覚悟は十分にしていたが、驚いたのは義母まで一緒に美穂たちの帰宅を待ち構えていたことだ。
ーーお留守中にごめんなさいね。でも、貴之は休日も仕事で忙しいのに食事もないって言うから。美穂ちゃんも泊まりがけの用事があるなら仕方ないわよねぇ。
そう冷たく言い放った義母は、およそ3日分はあるだろう大量の料理をキッチンに並べていた。
ーーこのご時世、母親だからって遊びに行くのはダメ、なんて古臭いだろうけど、やっぱり優先順位はあるんじゃないかしら。忙しい夫を置いて、みーくんまで振り回して……。
その隣では貴之が溜息交じりに微笑んでいて、美穂は何度も平謝りを繰り返した。
けれど謝罪なんて大したことではない。美穂が心底反省したのは、湊人がそんな自分を複雑な表情で見つめていたことだった。
「女って、やっぱ馬鹿だよな」
「え……?」
テレビを見ながら呟いた夫に、美穂は顔を上げる。
「大した能力もないのに権利ばっか主張する。ちょっと意見すると感情的になる。どうでもいいことにいつまでもガタガタ拘る。やりにくいんだよ」
「……そうなんだね」
「女は男臭くなったら終わりだよ。その点、美穂みたいな女は本当の意味で賢いんだろうな。適齢期に結婚して子育てもしっかりして、優雅な生活手に入れてさ」
貴之はそこまで言うと少し落ち着いた様子で、「さすがだよ」と満足そうな視線を向けた。
夫はこれまでも仕事関係の女性の扱いにいらだっていることが度々あり、その度になぜだか妻を妙に褒める。発言自体に違和感はあるが、久しぶりに表情を緩めた夫を前にすると、美穂の心も自然と和んだ。
「奥さんがこうやって家にいてくれる俺は、やっぱり幸せなんだろうな。じゃあ仕事に戻るわ」
「あ、ならすぐコーヒー持っていきます」
すると突然、貴之は背後から美穂を抱きしめた。その行動に戸惑いながらも、彼の体温にすっぽり包まれると身体から力が抜けていく。
「いつもありがとな」
穏やかな夫の笑顔に、なぜか涙が出そうになった。
彼がリビングを出て行くと、数日続いた緊張感が一気に緩み、背中で大きく息を吐く。
もう、絶対に家の中に波風を立ててはいけない。「何もしないこと」が、家族にとっても自分にとっても一番平和で幸せな選択なのだ。
美穂はコーヒーポットの影にさり気なく隠したスマホを手に取ると、早希から届いていたスナップの打合せについてのLINEに素早く断りの返信をする。
そして、もう一つ。
『美穂ちゃん、息抜きしたいときは気軽に連絡してね。また飲もう!』
透がくれたメッセンジャーは、しばし迷った挙句、そっと非表示にした。
胸に小さく引っかかる違和感は完全に無視した。
夫の巧妙なアメとムチに支配されていることなど、この時はまだ気づく余地もなかったのだ。
透といい雰囲気になるも、ますます夫の支配が強まる美穂。残された女3人が抱く本音
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