モラハラに耐え続けた妻の、最後のピース
 

「......ひどい顔」

美穂は自分に向かって思わず呟き、本当に老けたな、としみじみ思った。

まぶたも口角も疲れたように垂れ下がっていて、ほうれい線もくっきり浮かんでいる。髪の毛も水分を失ったようにパサパサとしていた。

老化は誰にでも訪れる。そんなことは分かっている。

それにしても、今の自分には年齢だけが理由ではない悲壮感が明らかににじんでいた。

これまでずいぶんと長い間、美穂は自分の身に起きた不幸から目をそらし続けていた。

でも、今なら分かる。

貴之は、いわゆる典型的な“モラハラ”夫だ。

コロナ禍で在宅勤務になり、家で過ごす時間が増えたことでモラハラは増長されたが、今思えば昔から違和感を感じることは何度もあった。

最初は、仕事でいら立っているときなどに数日間無視されるようになったことが始まりだったと思う。また美穂の作った食事が気に入らないときは無言で外食に行ってしまったり、急に「必要ない」と月々の生活費を渡してくれないこともあった。

当初、美穂はその度にひどくうろたえ、貴之の機嫌をとるのに必死になった。

そして機嫌さえ回復すれば、彼は優しい夫に戻る。それを学んでから、夫の顔色を伺うのは生活の一部となった。

次第に貴之は、美穂を否定するような発言を口にし始めた。

「お前は家以外で何もできない」
「思考力が低い」
「母親失格だ」

湊人が生まれてからは怒鳴られることも増えた。物を壊されたり、投げ付けられることも度々起きた。

少しずつ毒に蝕まれていくように、美穂は気づけば貴之の言葉に洗脳され、行動を制限され、夫の傀儡(かいらい)のような生活を送るようになっていた。

しかしそんな状態でも、心のどこかで「貴之はおかしい」と分かっていたと思う。

それでも家庭を守り続けたのは、彼が“子煩悩の優しい父親”という一面を確かに持っていたからだ。

けれど昨晩、夫の攻撃が息子に向いたとき。

最後にかろうじて繋がっていたピースのような物が、美穂の中で砕けてなくなった。

「モラハラ夫に10年耐えた」子持ちの専業主婦が洗脳から覚めたきっかけスライダー2_1
「モラハラ夫に10年耐えた」子持ちの専業主婦が洗脳から覚めたきっかけスライダー2_2

とはいえ仕事も取り柄もない、夫に養われるだけの専業主婦の自分が、自ら家庭を壊すような行動をとるなんて、そんな暴挙が許されるだろうか。

そんな不安が大波のように押し寄せるたび、美穂はそれを必死に押し戻した。

この不安に支配され、すでに10年もの時間が経ってしまったのだ。結果、一番大切な我が子を暴力の危機にさらし、ひどい場面を見せてしまった。

自分さえ我慢して上手くやれば、貴之はきっといつか正常な状態に戻ると思っていた。少なくとも家庭は守られ、湊人にとってそれが最良の道だと信じていた。

しかし結局、湊人を守れるのは自分だけなのだ。貴之に期待するのも違う。美穂が自分自身で行動しなければ状況は変わらない。同じ過ちはもう絶対に繰り返したくない。

そう思い直すと、身体の内側から熱いものが込み上げる。

美穂は明け方の薄暗い家の中で、まだ寝室で眠る夫に気づかれないよう細心の注意を払い必要最低限の荷物をまとめ始めた。

洋服もバッグもいらない。身ひとつあれば、きっと何とかなる。

とにかく今は何も考えず、ただこの衝動に従うべきだと本能が告げていた。とにかく一歩を踏み出すのだ。

美穂は最後にそっと湊人を起こすと、まだ寝ぼけたまま不安に怯えた様子の息子を抱きしめながら、静かに表参道の自宅を後にした。