モラハラに耐え続けた妻の逆襲
数日後、美穂は湊人を学校へ送り出すと、念入りに身支度を始めた。
夫に殴られ衝動的に別居に踏み切って以来、今日は久しぶりに貴之と会う。
化粧下地とファンデーションを丁寧に肌に乗せ、口紅は久しぶりに濃い色を選んだ。髪も強めに巻く。服も明るいピンク色を選んだ。足下はセルジオ ロッシのピンヒールを合わせる。どれも貴之が「品がない」と言って嫌うものばかりだ。
けれどその意見も一理あるかもしれない。たしかに今の美穂はオシャレに可愛さや美しさよりも、強さを求めている。まるで武装でもしている気分だ。
しかしながら、大手町のパレスホテルで落ち合った早希は「今日の美穂、すごく綺麗」と微笑んでくれた。
このホテルならエントランスは見通しがよく、ラウンジに辿り着くのにエレベーターに乗る必要もないため安全だと美穂が判断したのだ。
「私、近くでちゃんと見張ってるから。会話の録音忘れないでね。何かあったら躊躇わずに大声出すんだよ。分かった?約束だからね」
「分かってる。大丈夫」
まるで母親のような口調の早希を少しばかりおかしく思いながら、美穂は一人でラウンジに足を踏み入れる。
念のため約束の30分以上も前に席についたのに、貴之はその後まもなく現れた。
「美穂……本当に心配した。その……思ったより元気そうでよかった」
スーツに身を包んだ夫は妻をいたわるように微笑んだが、その目に攻撃性が潜んでいるのは明らかだった。10年もこの男の機嫌を伺い続けて来たのだから、表情を読み取るくらい簡単にできる。
「でも、さすがに俺も驚いたよ。内容証明なんて物騒なものが突然送られてきたり、弁護士まで……。まぁでも、そろそろお互い疲れただろ。俺も悪かったから、今回のことは水に流そう」
「……水に流す?」
「ああ。また誰かから余計なこと吹き込まれたのは分かってる。美穂が一人でここまでやらかす訳ないから」
貴之は右側の口角だけを少し上げ、乾いた声で笑う。人を見下すときの癖だ。
「とにかくお前が何より一番に考えるべきは湊人のことだろ。勝手に転校までして……普通は冗談じゃ済まされないよ。けどまぁいい。俺も謝るから仲直りしよう。な?湊人が可哀想だ」
本人は平静を保っているつもりのようだが、その目はすでに怒りに満ちていた。膝も小刻みに揺れている。相当苛立っている証拠だ。
「とりあえず週末に迎えに行くよ。そちらのご両親の誤解を解いて、あと、うちのお袋にも謝罪しないと」
ーー謝罪……?
美穂は思わず目を見張る。
予想はしていたが、夫は何も変わっていなかった。この後に及んで妻に責任を転嫁し、立ち位置を変える気もない。きっとこの人は病気なのだ、と冷静に思った。
「……貴之さん、勘違いしてるようだから率直に言います。私、家に帰る気はない。このまま弁護士さんに頼んであなたと離婚する。もう一緒には暮らせません」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
けれど身体の内側はまるで沸騰しそうなほど熱を持ち、心臓の激しい音が生々しく耳に響く。
「は?お前、いい加減に……」
「何か主張や意見があるなら弁護士に伝えてください。調停でも裁判でも構わない。私は必ず離婚します。湊人の親権ももらう。今日はそれを伝えたかっただけなの。あと、お義母さんに謝罪する理由もないわ」
こんな風に夫へ怒りを向け、自分の意見をハッキリと述べたのは恐らく初めてのことだ。
言葉を失いショックを受けたように自分を見つめる夫を前にすると、もっと早くこうして怒りや悲しみを解放すれば何か変わっていたかもしれないと、わずかな後悔が胸をよぎった。
でも、もう遅い。過去には戻れない。
美穂は身体が震えてしまわないように足にしっかりと力を込め、静かに席を立つ。
ーーさよなら、今までありがとう。
するとなぜだか不意に温かい感情が身体の奥から湧き上がり、涙腺が緩みそうになった。
早希がエントランスで待ち構えているはずだ。泣くのはそれからでいい。
美穂はもう一度姿勢を正すと、ヒールがコツコツと上品な音を立てるのに集中しながら、一歩ずつ、力強く前に進んだ。
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