オリンピック開会式にまつわる、渡辺直美さんに関する「外見イジリ」騒動を見ていて、私は思いました。これはルッキズムについて、ちと考えるタイミングだなと。というのも私自身が「イケメン」というタイトルのついた原稿枠をふたつ持っているからなのですが、まずは騒動の整理を。
問題はいろいろある気がします。ひとつは、没になったとは言え、オリンピック開会式で「侮蔑的な外見イジリ」という企画がーーおそらくご本人が「侮蔑的」という感覚すらなしにーートップに近い人の発想として出されたこと。会議の場としてのLINEグループを「公の場」として考えていない脇の甘さ。「リークされた」という点を問題視する人がいるけれど、コンプライアンス違反の通報窓口を持つ大企業も少なくない昨今、「公の場」である会議でのそうした発言が漏れるのは当たり前です。
さらにこれを聞いた渡辺直美さんの周囲及び一般の人たちに「彼女は気にせずやったはず」「これで彼女の仕事が減ったら……」という、完全にズレた意見が出たこと。これにはご本人が「絶対に断った」ときっちり反論しています。「以前はそういうのを求められ(て応じ)たこともあったけど、もうそこじゃないところにいる」という彼女の言葉は、例えば「そういうの」の部分に、「殴られても耐える」とか「女性はかわいいのが一番」とか「わきまえて口答えしない」を入れると、多くの女性が「すとん」と腑に落ちるかもしれません。さらにこういう状況に際して女性が言う「気にしていない」は、「落ち込んだりくじけたりしたくないだけ。侮辱されたことはわかってる」という意味だということも言っておきましょう。そして最後に「あれだけボディ・ポジティブなイメージの渡辺直美ですら、未だにそんな風に扱われる社会なんだ」という失望。
さておき。私が考えたのは、今後の「イケメン」に関する自身の身の処し方です。ルッキズムとは有り体に言えば「人を外見で判断すること」。ややこしいのは「醜さ」だけでなく、時には「美しさ」に言及するのも基本的にNGです。昔、姉妹でタイに行った時、現地の店で隣で飲んでいたトランスジェンダーの集団にジロジロ品定めされた上に「お姉さんはキレイ~~~!」と言われ、「おいおい、お前らがそうくるのかよ」と思ったことがありますが(ちなみにウチの姉が特別美人というわけではありません)、「美醜の言及NG」はこういうルッキズム的不愉快シチュエーションを起こさないため。つまるところ「公の場で接するよく知らない相手に対し無礼にならないよう、プライバシーや人権意識により繊細に配慮しましょうよ」ってことは、あらゆる差別やハラスメントと同じ。もちろん相手が男性でも基本NG。「相手は気にしてないし、意外と楽しそうだったし」と手前勝手に言うな、って話です。
でもこれをエンタメの世界に持ち込むのは、なかなかに悩ましい問題です。例えば私の本業である映画の世界では、「美」を目的に配置された美女やイケメンがつきもので、これを無視して作品の魅力を語るというのは「エビを食わずにエビフライの美味しさ語って」みたいな何の罰ゲーム的状況に陥ります。そういう中で「美」に対してどんな意識を持つべきか。ここでは「あくまで、虚構の世界の美醜の取り扱い」について、自律の意味で自分の考えを書いてみたいと思います。
【その1】ルッキズムの扱いは、男と女で異なる
かねてから思っていたことですが、「外見に言及されること」の意味合いは、女性と男性で大きな違いがあります。
例えば「100目盛りの美醜メーター」があったとして、「外見に言及される男性」は「10以下」もしくは「90以上」の人たちで、それ以外は特に言及なしが一般的でしょう。でも女性の場合は目盛り関係なし。ボリュームゾーンの40~60くらいの人たちも、ちょっと化粧すりゃ「今日はデート?」、寝坊してノーメイクなら「眉毛ないと顔怖いよ」、夜道で「お姉さんキレイだね」ってついてきた男にひえーー!!!と慄き無視し続けると「お前なんか相手にするかよこのブス!」とか言われるわけですね。
ただでさえこんな状態なのに「ルッキズム、オッケー!」なんていった日には、ベンチプレス100kg挙げられるとか、1億の借金を10年で完済した手腕とか、雀士として百戦連勝とか、そういう評価基準は宇宙の彼方へ。「美しすぎる重量挙げ選手(ベンチプレスの記録80kg)」「美しすぎる(まあまあ強い)雀士」のほうが評価高くなっちゃったりする。
これは虚構の世界でも同じこと。つまり「美人女優」と「それ以外」。「40歳をすぎると、映画の中で女性が演じる役が激減する」というのはあらゆる国のエンタメ界で言われることですが、それは「上手い女優」「面白い女優」「迫力のある女優」「カッコいい女優」「味のある女優」「渋い女優」「アクション女優」という女優の多様性(ひいては女性の多様性)が、ルッキズム偏重の評価により阻害されているから。「“美しさ”前提、それ以外は+αのサブ要素」でいる限り、女優は「作品の(ひいてはコミュニティの)彩り」の域を出ず、いつまでも作品の面白さの中心を担えません(ちなみに映画の登場人物は男性のほうが圧倒的に多く、活躍の場そのものも限られています)。
一方の男優は「上手い」「怖い」「迫力がある」「味がある」「渋い」など、評価軸多様なのですが。「美しい」とか「かわいい」という、今の社会で「女性ジェンダー」とされている要素では、あまり評価されません。そうした要素を男性の評価軸に加えることは、「男性ジェンダー」を強いられ苦しむ男性に、新たなあり方を肯定的に示すことにもなるんじゃないか。「男だって、強さとか権力だけでなく、美しさで評価されていい」という。
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