2011年3月11日に生まれた娘


2011年3月11日、佐藤寛美さんは仙台市内の産婦人科に入院していました。午前2時に第一子の長女を出産したばかり。地震後すぐに生まれたばかりの娘を毛布にくるみ、吹雪の中を外へ避難しました。

病院内に戻ると、産婦と新生児はひと部屋に集められました。転落を防ぐためにベッドは使わず、床に敷いたマットで寝起きし、看護師からは「赤ちゃんは隣に寝かせてすぐに避難できるように」と言われたといいます。

出産後3日目に実家に戻った佐藤さん。ライフラインがなかなか復旧せず物資不足の中、娘が無呼吸発作を起こしてしまいます。しかし佐藤さんの両親、病院の先生たち、支援や救助のために県外から派遣された救急隊員らがリレーのようにつながり、娘は一命をとりとめることができました。

成長するにつれ、娘は自分の生まれた日に地震と津波があり、大勢の命が奪われたことを知るように。

「生まれてきちゃダメだったの?」

娘からそう聞かれたこともあります。

「そんなことないよ。亡くなった人たちの分も生きなきゃね。これだけ大きくなったよ、と伝えられるようになろうね」、と来年も再来年も誕生日を祝おうと約束しました。

娘が小学3年生になった時、初めて震災遺構の気仙沼向陽高校の旧校舎を訪れた佐藤さん親子。津波の恐ろしさ、自然の脅威を目の当たりにし、娘は話でしか聞いたことのない震災を目に焼き付けていたようでした。娘からたくさんの質問を投げかけられた佐藤さんと夫は、伝えられる限り伝えたそう。

震災直後、近所の人がおむつ用の布をくれたり、会社の同僚が粉ミルクを買うために一緒に列に並んでくれたり。「ひとりじゃない、助けてくれる人が必ずいる、そしてあなた自身が助ける人になれる、と娘やこれから大人になる皆に伝えたい」と佐藤さんは言います。

 


自らの被災経験から臨時災害FM局を開局


2011年3月11日当時、専業主婦だった苫米地圭さんは、宮城県南部の亘理町の自宅の1階が津波で床上浸水し、逃げた2階で3日間取り残されました。停電し、携帯電話も通じず、情報が一切入ってこないので不安でいっぱいだったとのこと。

その経験から被災した町の現状を広く伝えたいと思い、町役場に直談判して震災から約2週間後に臨時災害FM局を開局した苫米地さん。集まってくれた仲間たちと自転車で町内を回って集めた被災状況や生活支援情報を放送し続けました。住民からは「こういう情報がほしかった」と感謝され、うれしかったと言います。

2016年に臨時災害局としての役目を終えましたが、資金を集めて2年後にコミュニティー局「エフエムわたり」を再開。現在はスタッフ14人で町内の話題や商店などの情報を提供しています。

新型コロナウイルスの感染拡大で休校となった小中学校の先生たちに出演してもらい、子どもたちに声を届ける番組も放送しました。涙を流して喜んでくれた子もいたそうです。

「今後も復興に向かう町の様子を広く伝えたいと考えています」という苫米地さん。自らの被災体験をもとに、今日も電波に乗せて、住民が誇りを持てる情報を発信し続けています。