時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。

 

昨年、パンデミックとその後の世界について世界の賢人が語った番組を見ていたら、『サピエンス全史』などで知られる歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリさんが「ケア」の重要性を指摘していました。感染症の世界的流行との戦いは、「ケア」の発想がないと乗り切れないと。ケア、つまり人を労り、お世話し、心配したり、手を差し伸べたりすることです。

 

確かにそうですよね。自国に医療品やワクチンを抱え込んでも、身を守れません。他国で医療が崩壊すれば、爆発的に増えたウイルスは世界中を移動して、何度でも身近なところまでやってきます。自己中心的な行動では、パンデミックを終わらせることはできないのです。

「ケア」の重要性は、パンデミック以前から言われていました。男性学の研究で知られる関西大学の多賀太教授は、男性に刷り込まれた「男らしさ」の呪いを解き、ハラスメントや性差別のない社会を作るためには「ケア・シェア・フェア」が重要であると提唱しています。やり方を押し付けたり、切り捨てたりするのではなく、異なる立場の人の事情を想像すること、所有しよう、独占しようと思わず、分かち合い、助け合うこと、相手を支配したりいじめたりせず、対等な関係を築くこと。

男性は、男らしくあらねばという思い込みから、相手を打ち負かし、より多くのものを所有し、他人よりも優位に立って、競争社会での地位を確立しようとします。女性もまたそういう男性を好ましいと考え、「男は年収と肩書き」「男は強くなきゃ」などと考えるようになります。この「男は、男らしくなくちゃいけない」という強迫観念は、不安の裏返しでもあります。弱さや不完全さを晒すことを極度に恐れ、痩せ我慢したり大風呂敷を広げたりするのです。

パンデミックでも、アメリカのトランプ前大統領やブラジルのボルソナーロ大統領、インドのモディ首相などが、科学に基づいて慎重に判断するべきところを「コロナに勝った」と早々に宣言したり「マスクは臆病者がつけるものだ」と嘯いてマスクをつけなかったりして、感染爆発を招き、甚大な犠牲を出しています。権威と強さを誇示することにこだわり、思慮に欠ける態度は、典型的な「男らしさの呪い」、トキシック・マスキュリニティ(有毒な男らしさ)の表れです。

「ケア・シェア・フェア」の視点で世の中を見てみると、いろいろな問題が見えてきます。
例えば、オリンピック。日本国民の7割以上が今夏開催に反対し、海外からも批判の声が上がる中、IOCのバッハ会長は予定通り開催を強行する方針で、日本政府も「やると決まっている」という姿勢を崩していません。
日本国内のワクチン接種はなかなか進まず、他の先進国から大きく遅れをとっています。IOCや日本政府に「新型コロナウイルスから、一人でも多くの人を守る」というケアの視点はあるでしょうか。「日本国内だけでなく、海外にも新たに感染が広がったら、たくさんの人が犠牲になる」と想像しないのでしょうか。

ワクチン接種を進めようにも、医療従事者が足りません。変異株の流行で感染者が急増し、病院は医療崩壊状態です。そんな中で東京五輪組織委員会は、1万人の医療従事者を確保しようと派遣要請を出しています。
Twitterでは「#看護師の五輪派遣は困ります」というハッシュタグで、看護師の派遣要請に反対するデモが行われています。限られた医療のリソースを、今、どこに回すべきでしょうか。治療とワクチン接種に集中的に投入するべきなのは明らかです。
多くの人に不安とウイルスを広めた大会となれば、歴史に残る負の遺産となるでしょう。「五輪をやり抜いた」という手柄では、人の命は救えません。一人一人の命を同じようにフェアに、大切に扱うなら、オリンピックは開催するべきではありません。

どうか「ケア・シェア・フェア」の視点で、いろいろな出来事を見てみて下さい。新型コロナウイルスに感染しても入院できずに亡くなる人、入管施設で病気の治療を受けられずに亡くなる外国人。一見無関係なニュースにも、根本にあるのは、人の命をどう扱うのかという問題です。
そこにケアの視点はあるか。今、私たちがどんな社会に住んでいるのか、よくわかるはずです。

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