テニスの大坂なおみ選手が、選手に記者会見を欠席する権利を持たせてもらうのはどうかと手記で提案し、メディアとスポーツの関係性を改善するために声を上げてくれたことを私は素晴らしいと思いました。

2021年5月に行われた、全仏オープン女子1回選での大坂なおみ選手。写真:Abaca/アフロ

このことについて、「まさに選手が世界を変えようと声を上げた事例」として内村選手の発言と対極のように語っている人がいるのも見ました。でも、私が思ったのは、両者の言動は対照的に見えたとしても、むしろ、直面している問題の根っこは同じではないかということです。

 

それは、メディアの前に立つこと自体が本業ではない人にコメントや意見を求めることは、大きなストレスをもたらす可能性があるということです。「それもスポーツ選手の仕事のうち」と捉える人もいると思います。五輪の件は、スポーツ選手にとっても非常に重要なトピックで、だからこそ内村選手に、自分たちが信じる方向の言動をしてほしかった人もいたのかもしれません。

でも、私はやはり政治家や経営者、言論を生業にしている人などの立場とスポーツ選手では立場が異なると思います。今回の内村選手のコメントは、自分で発信することを決めたわけではなく、また反論もできるSNSのような媒体で発信したわけでもありません。メディア対応としてコメントしたことがこのように批判されると、スポーツ選手にとってはますますメディア対応が苦痛になっていくのではないでしょうか。

影響力を持ってしまうから発言するのが怖くなる、「モノ言えば唇寒し……」と思っていることも言いにくくなる……。となれば、むしろ自由な発言がしづらくなります。アスリートには、時には質問に答えない権利、そして責任を持って発言をしたいときにはきちんとそれができる環境を整えるべきなのではないでしょうか。


基本的に私は、「何を言おうが世界は変わらない」と思う人がどんどん減っていく社会になっていってほしいという立場です。歴史を踏まえて、「目の前のことをやるだけ」と個人が思考停止することが危険だという主張にも首肯する面はあります。

ただ、どうも五輪開催などの議論について反対派の怒りの矛先が、アスリートという「個人」に向かい始めている気がしてなりません。スポーツ選手、そして個々人の力を見くびりたくはない、ぜひ先頭に立って色々なことを変えていってほしいのはやまやまです。でも、個々人がそれをできない、あるいは、しないことに決めた背景への想像力も持っていたいです。

そしてアスリートがこのように葛藤したり攻撃を受けたりしないよう、判断や対策をしなくてはいけなかったのにやらなかった、その責任は、政府やIOCなど別の組織にあるのではないでしょうか。

個人と構造を混同してはいけないというのは、五輪議論に限った話ではありません。責任追及の矛先を間違えていては、まさに「世界は変わらない」と私は思います。罪を憎んで人を憎まずではありませんが、全体主義的になることを危惧すればこそ、自分と異なる意見の人を個人攻撃してはいけないし、自分と同じ意見の人であっても、その発言の仕方が人格攻撃になっていくことに対しては危惧を示さないといけないと思ってます。

前回記事「都議選で女性候補が躍進!全体の3割超が持つ「2つの意味」」はこちら>>

 
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