東京オリンピック開催強行のカウントダウンが始まっちゃってるタイミングですが、私は今も中止しかないと思っていますーーてな意見をまずは発信しつつ、今日は実は五輪と深い関係にある(?)「我が家の晩ごはん問題」からスタートしたいと思います。

家庭内で食事を作る担当は私なのですが、お食事担当の皆さんはご存知のように、毎日毎日献立を一人で考えるのは結構大変なもの。当然同居する家族に「今日は何が食べたい?」と聞きますよね。「鶏の唐揚げ!」「麻婆豆腐!」「干し貝柱と冬瓜入りフカヒレスープ!」「ハチノスの沙茶醤炒め!」とかその時々で意見が出ます。いやあのねウチは横浜中華街じゃないんだからとか言いつつ、時には唐揚げさえも「今は鶏肉より前に買った豚肉がある」とかいう事情で対応できなかったりする。料理番の「番」たる真髄は「冷蔵庫に長逗留していて、先に食べるべき素材はなにか?」を考えることにあるわけで、「何が食べたいか」というご意見は頂戴してながらも、かならずしもその期待に沿うことができない時もある。もちろんその判断が、必ずし正しくないこともあるんでしょうが。

 

こういうことが何度か続くと家族は意見を言わなくなります。「なんで?」「別になんでもいい」「なんでもいいじゃ決まらないじゃん」「だって何でもいいんだもん」「いや、ちっとは考えてほしいんですが」と詰めていくと、しまいには「どうせ最初から、こっちの意見なんて聞く気ないじゃん。結局自分の作りたいもん作るじゃん」って言われたりする。

私個人としては色々と言い分はあるし、君ただ単に考えるのがめんどくさいだけじゃないのなんてことも思ったりしますが、それはさておき。あ、そう、そういうことならご勝手にみたいな流れで、これが定着してしまうご家庭もあると思います。するってえとどういうことが起こるかというと、意見を言わない人は「いないも同然」になってゆくんですね。
 

「賛成してるわけじゃないけど、ことを荒立てるよりは」の思考癖


もちろんいきなり「フカヒレ食べたい」と言われれば、いやそんなの作れるわけないでしょうがと却下される、もしくは春雨のスープになっちまう可能性は大きいですが、もしかしたら「じゃぁ外に食べに行くとか?」「いいね!」みたいな展開もあるかもしれませんね。相手は単に外食を発想できないだけ、言われてみたらそっち系(ご飯作らないでいい系)のほうがずっと嬉しいかもしれない。今日は自分の意見が通らなくても、相手には「フカヒレスープ食べたいのか」という印象が残れば、「そういえばこないだ言ってたから、フカヒレスープお取り寄せしてみようか」みたいなこともあるかもしれない。

でも最初から「どうせこっちの通らない」と意見を表明しなかったり、「別に賛成してるわけじゃないけど、違う意見を言ってことを荒立てるよりは」と賛成風に迎合すれば、雑に賛成とひとくくりにされ、対処する必要のない人、意見を聞かなくていい人、つまり「いないも同然」の人にされてしまうわけです。

五輪がらみの世論調査を見るたびに、社会においてこういうことが起こっていることに、強い危機感を覚えます。そもそも学生時代から制服や校則によって、自己主張しないこと、同調圧力に従うことを身体に叩き込まれている多くの日本人は、周囲の意見や様子を伺いながら自分の意見を決める、落とし所を探す(つまり「自分自身は本当はどう思っているのか」を考えない)習慣がついています。でも政治において落とし所を探すのは政治家の仕事であって、国民はただただ自分の意見を主張するだけでいい。むしろ国民が主張を諦め、自ら落とし所を探すことは害悪でさえあります。国民の真意が伝わらないがゆえに、政治家は様々な可能性を探ることをしなくなります。そのほうが政治家は楽なんです。国民がたどり着いた落とし所、もしくは時間がなくなったがゆえに他の選択肢が失われ最後に残った落とし所を「安パイ」として選べばいいんですから。これを別名「後手後手」といいます。

さらに注意したいことを付け加えるなら、世論調査は選択肢の作り方によって恣意的な結論を導くことができ、それによって世論誘導ができることも忘れてはいけません。

例えば朝日新聞のこちらにはある「再延期」という選択肢が
「五輪開催なら「無観客」64% 朝日新聞の都民世論調査>>

産経新聞のこちらにはありません。
【産経・FNN合同世論調査】「五輪中止」3割に大幅減 観客有無は拮抗>>

もし産経の調査にも「再延期」の選択肢があった場合、再延期も含めた今年の五輪開催反対派の大幅減という結論にはならないかもしれません。
 

意見が通るか、通らないかより大切なこと


反対意見は決して対立ではなく、感情でもありません。ただ意見が違うだけ。最終的に結論を出さねばなりませんが、それ以上に大事なのは、まずはどんな意見があるか、考え方があるかを俎上にならべること。だからたとえ自分の意見が通らなくても、意見を言う事は無駄ではありません。オリンピックの反対を言い続ける事もそうだし、たとえ支持する政党がなくても選挙に行き、少なくとも支持しない政党以外に投票することもそうです。相手がちゃんとした人なら「フカヒレはハードル高いけどやってみる価値あるかも……」と思ってくれるかもしれないし、相手がちゃんとした人でなくても「フカヒレのこともたまには考えないと、関係が悪くなる」というプレッシャーにもなります。意思表示はそれだけで価値がある。だからまずは意見が通らないことに一喜一憂しない、そこにタフになること。意見が通らないのは人格否定ではない。むしろ意見を言わないことこそが自己否定です。

そしてもちろん相手の意見に対しても、きちんと対応すること。ちなみに「我が家の晩ごはん問題」において、SDGs渥美の基本的スタンスは「世界の食料廃棄は我が家から始まる」で、意見をもらっても沿うことができないのは申し訳ないけども、献立考えるのも「名もなき家事」なんだから、そちらのご意見を発想のとば口にさしてもらったっていいじゃないの、的にご説明します。日本人は議論が苦手といわれますが、なんのこたない、このくりかえしが議論。おうちでも、ぜひどうぞ。

前回記事「池江璃花子さんに「出場辞退を迫る人」と「五輪開催に担ぎ上げる人」のおぞましさ」はこちら>>