数年前、渋谷駅南口の歩道橋を駅と反対方向に向かって歩いていたら、背後から腿裏に強烈な打撃を受けました。私は比較的痛みに強いほうなのですが、ちょっと経験したことのないほどの痛みです。私は年がら年中思考が止まらないタイプの人間なのですが、そういう思考がパーン! と砕け散り、痛みで頭の中が真っ白になり、思わずその場にうずくまってしばらく立ち上がることができませんでした。
激痛とともに私の左脇を走り去っていったのはスーツ姿のオッサンで、おそらく私の腿裏を襲ったであろうカバンを右手に持っていました。もし自分のカバンが誰かにぶつかったら「すみません」と一声かけるのが普通……まあ最近は「っつうか、ぶつかったのに挨拶なしですか」という人も少なくはないですが、さすがに相手がうずくまるほどダメージ受けていたら、振り返りもせず走り去るのはありえない。私の状況を見た、通りすがりのまったく無関係な人が「大丈夫ですか?」って声かけてきたくらいだったし。
ていうか、そもそもすれ違いざまにぶつかっただけでそこまでのダメージ与えるってのは、そのカバンが特別注文の大理石製とか、中にサバ缶詰めとか鉄アレイとかめっちゃ硬いものが30kgくらい入ってるとかじゃない限り起こりにくい。いやいや、もしかしたらケリだったのかも。5分ほどうずくまって立ち上がり、足を引きずりながらあるき始めた私は、怒りのあまり吐き捨てました。あのオヤジ、わざとやりやがった。
実際に経験したことがない人や、自分自身にそういう発想がない人(つまり平和に生きてきた善良な人)は、こういう話を意外と信じてくれません。たとえ信じてくれて「災難だったね」と言ってくれたとしても、「日常的に起きている事態」とは思っていなかったりもする。でも日常的に起こっていることです。大事なんでもう一度。日常的に起こっていることです。そしてこれは女性のみを狙った、典型的な「ヘイトクライム」でもあります。
ここ数日「ヘイトクライム」についてすごく考えているのは、小田急線で起きた痛ましい刺傷事件のせいです。中学・高校と小田急線沿線の学校に通い、部活の夏練の帰りには空いた各駅停車の中で爆睡してた私は、完全に世界が変わってしまったような思いがしました。被害者の方の心身の傷、その激痛には、かける言葉もありません。
そんな中でにわかに注目を集めるのが「インセル」「フェミサイド」という言葉です。「インセル」は以前にこの連載でも書いているのですが「インボランタリー・セリベイト(不本意な禁欲主義者)」で、日本語で言うなら「非モテ」でしょうか。彼らが「オレが不幸なのは、男をスペックで測る女たち、オレを蔑む女のせいだ」という認知のゆがみから、女性に復讐の矛先を向け攻撃する──これが「フェミサイド」。今回の事件で、犯人が最初に、それも執拗に刺した被害者が女性であったことから「フェミサイド」だとする見方があるわけですね。
今回、何がモヤモヤするって、この事件の報じられ方です。「幸せそうな女を見ると殺したくなる」とか「女性の万引通報が引き金」とか、初期段階における「いかにもフェミサイド」な報道の仕方、「こう書けばフェミが反応する」という感じの報じられ方は、煽りのイエロージャーナリズムそのもののように思えます。そしてTwitterなどでフェミ界隈の人が声を上げ始めたら、「こういう指摘も」と乗っかって来て、「またクソフェミが騒いでる」みたい空気になったところで──ドロン。いまや「女性が襲撃された!」みたいな記事は全然なし。なんだそれ。私がそこに乗っかりたくないのは、分断を生むだけだからです。
オリンピック報道にも共通するものを感じますが、利益供与しながら「素敵&感動イベント」風に騒ぐだけ騒いで、終わった後に何もなかったかのように、識者の言葉を借りて「問題だらけだった」って……あ、そかそか、パラレルワールドの話ってこと? してみると、女性差別や女性に対する暴力、男女平等の実現がこれだけ叫ばれている世の中とは異なる、パラレルワールドの報道なのかな? 事件の衝撃を煽るだけ煽って消費して、そこにある根本的な問題の芯は食わない感じ?
小田急線事件と比べられる事件に、韓国のフェミニズムのきっかけとなった江南駅殺傷事件──江南駅の男女共用トイレで女性が殺された事件があります。犯人はその理由を「女性に吸い殻を投げつけられたから」と語ったことから、多くの女性が「女性に対するヘイトクライム」と受け取ったのですが、裁判ではこれが認められず、そこから大きな流れが生まれたと言われています。社会は権威が明言することで認知し意識する、だからこそ言葉にこだわることは大事。韓国人女性がそこにこだわったのは、すごく理解できます。
女性問題に限らず、あらゆるヘイトに同じことが言えます。どう考えても間違っているあらゆるヘイトに対し、どうしてTwitterやインタビューなどの識者の言葉を借りずに、「許さない」と明言できないのでしょうか。言葉のプロであるマスコミが消費を目的に言葉を使い、本当に言うべきこと、議論すべきタイミングを、ふわ~っと避けるのか。変化はそこからしか始まらないのに、こっちはいつまでたっても通りすがりにおっさんにケリ入れられる毎日。お願いしますよ、ほんとに。
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