40歳独身女性の主人公が、余命宣告を受け男をかってみたら――。作家・吉川トリコさんの最新刊『余命一年、男をかう』の刊行を記念して、4人の人気作家、エッセイストらが「もし余命一年だったら……」を綴るリレー連載。
最終回は、作家・窪美澄さんです。元気なままの残り一年なら、訪れておきたい町とは。

リレーエッセイを記念して、吉川トリコさん、こだまさん、新井見枝香さん、窪美澄さんの最新刊サイン本をプレゼント! あなたの理想の余命一年を教えてください。ご応募はこちらから!>>

 


住んだことはないのに、やたら想い出の多い町


「もし余命一年だったら」というお題をいただいてどきっとした。
もし、私が本当に余命一年だったら……この原稿が遺稿になってしまうかもしれない。
実際のところ、今年56歳になる私には持病もなく、毎日、元気に過ごしてはいるのだが、とはいえ、いつ何時、病気が発覚するかもわからない年齢だ。この原稿を書いたあとに、大きな病気をするかもしれず、このお題をいただいて正直、胸に重たい石を投げられた気持ちにもなった。

 

そういう年齢になったのだ、と思うと同時に、長く生きてしまったなあ、という感慨めいた気持ちも胸に広がる。でも、今の年齢で万一、余命一年だったら……という想像はしておいて損はないかもしれない。

余命一年だったとして、どれほどの治療が必要なのかどうか、体力、気力がどれほど残されているのかによっても何ができるか変わってくると思うけれど、今とそれほど変わらぬ生活ができている、と仮定して、想像をしてみよう。

すぐに頭に浮かんだのは、名画『砂の器』のラストシーンだった。
この映画を見たことのある方ならご存知かもしれないが、とある病を背負った父親とその子どもが、各地で施しを受けながら、日本各地を放浪するシーンがある。

昭和の時代の日本各地の美しさを撮りながら、時間経過と共に、村を出て行くときには真っ白だった父子二人のお遍路姿が、次第に鼠色に染まってぼろぼろになっていくという、涙なくしては見られないシーンなのだが、施しは受けないまでも、歩いて日本の地方都市に行ってみたい、という強い気持ちがある。

 

『ノマドランド』の主人公のように車に必要最低限の家財道具を積み込んで、全米各地を放浪する、というストーリーにたまらなく惹かれる。けれど、残念ながら、私には運転免許がない。だから、歩くしかない。

目的地まで新幹線で行って、電車に乗り換えて、知らない町ではなく、今まで旅したことのある場所を旅してみたい。その町に誰と行ったのか、どんな想い出があったか、私の記憶のなかにあるこの町の記憶は確かだったのか、それを反芻しながら、ゆっくりと歩きたい。

例えば、息子の学費を払い終えた年に行った島根県の松江。
とろりとした湖面の宍道湖で夕陽がとっぷりと暮れていく風景を、時間を気にせず、見ていたい。松江からは、「ばたでん」と呼ばれる単線の一畑電車が出ているが、出雲まで行かなくとも、どこか気になる場所で降りて、誰もいないプラットフォームでなんにも考えず、鳶の鳴き声を聞いていたい。

それから、大好きな作家、太宰治の生まれた五所川原。太宰の生家はもう一度訪れてみたい。太宰の足元には到底及ばなかったが、あなたのせいで同じ小説家になってしまいましたよ、あと余命一年なんすよ、と、恨み半分で報告しなければならない。
ねぷた(ねぶた)の時期なら最高だ。青森でも弘前、五所川原でもいい、あの極彩色の山車をもう一度、自分の網膜に焼き付けてみたい。

あと余命一年なら、必ず行きたいのが神戸と大阪と名古屋。
どちらの町にも住んだことはないのに、やたらに想い出の多い町だ。
神戸、三宮のガード下に、横尾忠則さんのイラストをモチーフにした、めちゃくちゃ派手な服屋があって(五、六年前に行ったきりなので、今もあるのだろうか? それも確かめておきたい)、入るたび、私に着られるのか、と幾度も問うた末、何も買わずに帰って、というのをくり返してきたのだが、余命一年なら買う勇気も出るだろう。もちろん、神戸では神戸ビーフなんかじゃなく、ねぎ焼きを食べよう。

大阪には行きたい場所が点在しているのだけれど、余命一年、と期限が決められているのなら、迷わず「みんぱく」、国立民族学博物館に幾度か行ってみたい。みんぱくに行けば、余命一年で世界を旅する必要なんてないからだ。陳列物の情報量の多さに、何度行っても途中で脳がオーバーヒートを起こしてしまうみんぱくだけれど、これで見納め、と思えば、脳裏に深く刻みつけられることができるはず。

名古屋には大事な友人たちがいる。
コロナになって会えずにいる。
数年前、作家の吉川トリコさんはじめ、名古屋在住の友人と、東京在住の友人みんなで、一晩の間に名古屋や京都の飲み屋に出かけ、大酒を飲んだ(そのとき、トリコさんが階段を落ちたのもいい想い出。何事もなくてよかった)。お酒であんなに前後不覚になったのは二十代以来のことだった。
私が普段絶対に行かないカラオケにも行き、調子っぱずれの歌を歌った。
長く生きていると、いい想い出より、絶対に思い出したくない想い出のほうが、いいお出汁が出る。
あのとき、私はまだ40代だったけれど、人間40過ぎても、こんなに楽しい想い出が作れるのか、と本当に心からびっくりした。

 

とここまで書いて思う。
残りの人生が余命一年であるのなら、一人旅よりは、やっぱり私は誰かに会いたい。
遠方の友人とは、まだ会えずにいる。そんな状況を作り出したコロナが憎い。

余命一年なんだ、なんて野暮なことは相手に告げずに、その人に会い、その人を見、その人の記憶を心の奥深くに閉じ込めて、死んでいきたい。

それが私の小さな願いだ。
 

女の引き際はいつなのだろう【窪美澄】>>

【小説家・窪美澄さん】40代の先に、ご褒美のような50代が待っている>>

窪美澄(くぼ・みすみ)
1965年東京都生まれ。2009年『ミクマリ』で「女による女のためのR-18文学賞」対象を受賞。11年『ふがいない僕は空を見た』で山本周五郎賞、12年『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞、19年『トリニティ』で織田作之助賞を受賞。その他の著書に『じっと手をみる』『私は女になりたい』『ははのれんあい』など多数。

『朔が満ちる』
窪美澄 ¥1870 朝日新聞出版

かつて中学1年の時に僕は、酒を飲む度に荒れる父親に手を焼き、遂に斧で殴りかかって殺そうとしたことがある──心に傷を負ったまま家族とも離れ、悪夢のような記憶とともに生きていく史也。荒んだ生活の中で、看護師の千尋との出会いから、徐々に自身の過去に向き合おうとする──これは「決別」と「再生」の物語。

サバイブ、したのか? 俺ら。
家族という戦場から――
家庭内暴力を振るい続ける父親を殺そうとした過去を封印し、孤独に生きる史也。
ある日、出会った女性・梓からも、自分と同じ匂いを感じた――
家族を「暴力」で棄損された二人の、これは「決別」と「再生」の物語。

父へ、母へ、
この憎しみが消える日は来るのだろうか。

酒を飲んでは暴れ、家族に暴力をふるう父に対して僕には明確な殺意がある。
十三歳で刑罰に問われないことは知ってはいるが、僕が父を殺せば、もう母とも妹とも暮らすことはできないだろう。それがわかっていても僕は父を殺そうとしている。自分のなかに黒い炎を噴き出す龍が住んでいる。いつそれが自分のなかから生まれたのかわからない。龍は僕に命令した。今だ、と。

『余命一年、男をかう』
吉川トリコ ¥1650(2021年7月16日発売) 講談社

幼いころからお金を貯めることが趣味だった片倉唯、40歳。ただで受けられるからと受けたがん検診で、かなり進行した子宮がんを宣告される。医師は早めに手術を勧めるも、唯はどこかほっとしていたーー「これでやっと死ねる」。
趣味とはいえ、節約に節約を重ねる生活をもうしなくてもいい。好きなことをやってやるんだ! と。病院の会計まちをしていた唯の目の前にピンク頭のどこからどうみてもホストである男が現れ、突然話しかけてきた。「あのさ、おねーさん、いきなりで悪いんだけど、お金持ってない?」。
この日から唯とこのピンク頭との奇妙な関係が始まるーー。


イラスト/shutterstock
構成/川端里恵(編集部)

前回記事「毎日起きて働いてるミラクルな日々に、密かにミラクル待ちしてること【新井見枝香】」>>