時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。

 

20代の頃、大人が何かというと「日本人は」という言い方をするのが引っかかっていました。日本人って1億人以上いるよね? 私もその一人だけど、この人の勝手な「日本人は〇〇」っていう定義に入れないで欲しいなあ、と思っていたのです。

 

今でも「日本人は〇〇だから」はよく聞きますよね。20代も60代も、世代を問わずよく使っています。では、「日本人」って、あなたは何だと思いますか? 私は相変わらず「括りが大きすぎる!」と思ってしまいます。だって、同じ日本人でもバラバラじゃないですか、好みも価値観も。

人を構成する要素はいろいろあります。国籍や母語や、慣れ親しんだ生活様式や教育や、地縁血縁や見た目などで「日本人」に分類される人はたくさんいますが、それらが日本人の絶対条件ではないし、人の価値観や行動の全てを決めるわけじゃないですよね。「日本人てさあ」「日本人は〇〇だから」と言う人は、自身が“標準的な”日本人であると信じているのかもしれません。あるいは批判的な口調で、自分は典型的な日本人よりも洗練されていると言いたげな人もいます。「日本人は真面目だから」「日本人は自己主張が下手だから」などいろんな言い方があるけど、主語は「日本人」じゃなくちゃダメなんでしょうか。そんな大きな括りにしなくても「私は真面目だから」「私は自己主張が苦手だから」でいいんじゃないかしら。

実は私も、このトラップにハマったことがあります。
オーストラリアで買い物をすると、ギフト包装が大抵有料で、だったら私がやるよ?というくらい時間がかかる上に、仕上がりがゆるいことが多いのです。それで「日本人は手早くきれいに包んでくれるのに、オーストラリアでは折り紙教育がないせいか、雑だなあ」などとぼやいていたのです。
だけどよく考えたら日本でも、包装に時間がかかることや仕上がりがゆるいことはあります。私の頭の中にあったのは、自分が子供だった頃、1980年代から90年代にかけてのバブル期の日本のデパートでよく見た、店員さんの神業的なスピード包装術。それで「日本のラッピング技術はすごい」という強烈なイメージがあったんですね。それでつい「日本人はちゃんとしているのにオージーはゆるいな!」という日本人すごいぞ括りを無意識のうちにやってしまったのです。

これを指摘してくれたのは息子です。「ママ、パースでもラッピングが上手な人はいるよ。たまたまママが当たった人たちが下手だったんじゃないの? あと、日本人がじゃなくて、ママが包むの上手いだけだと思うよ」と。ああ、そうでした。私は素早くきれいに物を包むのが、大変得意なのです。だから本当の主語は「私」だったんですよね。「私はきれいに包めるのに、この人は下手だな」を、まるで自分が日本人代表みたいなつもりで「日本人はきれいに包むのに、オージーはゆるいな」と括りを大きくしてしまったのです。自分と店員さんとの関係を「個人対個人」ではなく「日本人とオーストラリア人」で見ていました。
この「〇〇人は〇〇」というやってしまいがちな決めつけは、悪気がなくても、特定の国や人種に対する差別や偏見、外国人嫌悪(ゼノフォビア)にもつながりかねません。大いに反省しました。

「私=日本」という認識は他のところでも見られます。「反日」という言葉は、他国の人が日本に対して敵対的な態度を示すことを意味しますが、近年では日本人同士で、政権を支持する人が政権批判をする人に用いたり、単に自分と意見の違う人を攻撃する際などに用いたりするようになりました。つまり「反日」とは「反俺・反私」なのですね。なぜ、意見の違う人に対して「自分はそうは思わない」ではなく「お前は反日だ」と言うのでしょうか。なぜ、括りを大きくするの?とても興味深いですね。

普段聞き流している「日本人てさあ」。細かいことのようだけど、今度耳にした時は「それって、誰のこと?」と考えてみるといいかもしれません。
 


前回記事「「性的鑑賞物になりたくないならビキニを着るな」にモヤる理由」はこちら>>