「誰がこの責任を一緒にわかちあってくれるんだろう?」
「一条瑤子さんの携帯電話でよろしいでしょうか? 先日の人間ドックの、再検査の結果が出ているのですが、至急クリニックにお越しいただけますか」
午後の会議の前にかかってきた病院からの電話に出たとき、瑤子は立ち止まって今週の予定を頭の中で反芻した。
「今週はちょっと最終診察時間の17時までに伺えそうもなくて……来週でもよろしいでしょうか?」
「いいえ、可能な限り早くということで、予約をお取りいただいている7日後ではなく今週に、と先生からお話がありました。19時まででしたらお待ちしますとのことでした。例えば今日か明日はいかがでしょうか?」
瑤子は反射的に、良くない話だと察した。夏に受けた人間ドックでひっかかり、先週乳がんの再検査をしたところだった。
一つ打合せを諦めれば、なんとか18時に行けるだろう。緊張して、胸がぎゅうっと締め付けられる。昔からとにかく健康優良児で、注射も病院も大嫌いなのだ。
「わかりました、今日の18時に伺いますとお伝えください。ご連絡ありがとうございます」
電話を切ると、びっくりするほど唇が渇いていた。
「一条、大丈夫か? 取引先、また無茶言ってる?」
同じプロジェクトを担当している上司の高木が、ひょこっと振り返る。
「あ、いえ、私用です。それより会議ですよね、すみません!」
なんとか気力を立てなおしたつもりだったが、その日、瑤子は入社以来ほとんどはじめて、会議の内容が半分も頭に残らなかった。
◆
――がん。私、がんなの? ほんとに? こんなに元気なのに? 冗談でしょ?
病院からの帰り道、瑤子はタクシーを拾うのも忘れて、広尾からとぼとぼと天現寺の交差点に向かって歩いていた。
資料とPCが入ったバッグがやけに重く感じられる。頭の隅でちらりと、初期の病巣があると言われた右の胸に負担をかけないほうがいいかなと、左に持ち替える。
――がん保険……確か婦人病特約みたいなの、つけてるはず。保険証書ってどこにしまってあるっけ…帰ったらすぐ探さないと。
伊達に長年、女一人でキャリアを張ってるわけじゃない。感情は追いついていなかったが、やるべきことは次々と頭に浮かぶ。
担当の鶴見医師は、同い年の女医で、ここ数年かかりつけのようにして定期健診に行っていた。
「再検査の所見は、初期の乳がんです。セカンドオピニオンや、手術をする病院を検討する時間が必要かと思って、少しでも早くお伝えしました。このあと詳しくご説明しますから、まずはご家族と相談してみてください。一条さんがご希望であれば、もちろんこの病院で私が手術することも可能です」
過剰な言葉を重ねず、現段階で必要以上に踏み込んでこない鶴見が、瑤子にはありがたかった。
家族って、誰を指すんだろう。同居人の春奈?金沢の母親か。……とりあえずWEBデザイナーで年下の彼氏、彰人でないことだけは確かだ。
瑤子は、顔を思い出したとたん、春奈と英梨花のことが心配でいてもたってもいられなくなる。
――私に万が一のことがあったら、あの二人はどうなっちゃうんだろ…。私、大黒柱なのに。
誰かに相談したいけれど、今まで秘密にしてきたせいで、この不可思議な責任を理解してもらうのに時間がかかりそうだ。
とにかく病院選び。大門未知子とは言わないが、それにしたって乳がんの手術にあかるい病院と医師に診てもらいたい。しかし、東京の高感度情報はたいてい把握していたが、そのような生活情報ネットワークが、瑤子には一切なかった。
天現寺の交差点で瑤子はひとり、とほほ、と声に出してみたが、それは誰にも届かなかった。
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