どういうことなのか、具体例をあげて見てみましょう。


【ケース1】ゴミ箱に放尿してしまった男性


ある日のこと。認知症のホリエさんという男性が、自宅のなかをウロウロ歩き回っていました。やがて部屋の隅に置いてあった黒いゴミ箱に目を留めます。そしておもむろにゴミ箱に近づいたかと思うと、そのなかに排尿してしまいました。「異所排尿」と呼ばれるBPSDが起こったわけです。 

ここでホリエさんの立場になって考えてみましょう。それがケアの大原則だと、第1章で確認しましたよね。ホリエさんは排尿したわけですから、<おしっこがしたいなあ>と思っていたはずです。<おしっこがしたい>とき、人は何をするでしょうか。当然、トイレを探します。ホリエさんもそのようにしたわけです。だから歩いていました。このとき、たまたま黒いゴミ箱が目に入りました。 ゴミ箱を見たホリエさんは、頭のなかで<これって、何だろうか?>と考えます。自分の記憶に聞いてみたわけです。

ところが記憶障害が進行していて、覚えていたはずの「ゴミ箱」というものを忘れていました。そのため「目の前にあるものがゴミ箱だ」ということがわかりません。 しかし目の前にあるので、<何だろう?>とさらに一生懸命考え続けます。 私たちだって、家に見慣れない物があったら、<これって何だろう>と考えるでしょう。それと同じことをしたのです。 考え続けたホリエさんは、ゴミ箱をこう認識しました。

<黒くて穴が開いているぞ……。そうだ、これは便器だ!>

これは、目が見えているのに正しく認識できなかった、いわゆる「失認」の症状です。私たちから見ると明らかに間違った認識ですが、その認識のまま、脳のなかでは次の段階へと進んでいきます。

ホリエさんの脳は記憶に照らし合わせ、今度は「おしっこの仕方」を計画します。幸いにも「おしっこの仕方」は覚えていました。ズボンのファスナーを開けて、きちんと用を足せました。排尿の仕方は私たちと何ら変わりません。

ホリエさんの「おしっこの仕方」は間違っていませんが、ゴミ箱を便器、すなわち用を足せるトイレだと誤解したため、結果として出てきた行動は、周囲が「何してるの!」と言いたくなるような「おかしな」ものになってしまったのです。

トイレに行けない、服を着られない…認知症の人はなぜ「当たり前にできていたこと」ができなくなるのか_img1

まとめると、一連の行動は次のようにとらえられるのです。

 

ホリエさんは記憶障害で物事がわかりにくくなっていた。家のなかをウロウロ歩き回っていたのは、用を足したくなってトイレを探していたからだ。そして、ふと目についたゴミ箱を便器と勘違いした結果、そこに排尿してしまった。


排尿はトイレでするのが生活上の〝ルール〟です。私たちは、そんな環境をつくり、生活しています。ホリエさんにも、それがよくわかっていました。だからその環境に合わせようとしたのですが、「失認」という認知症の症状のため、うまく合わせられなかったのです。