3月27日に開催される第94回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門にノミネートされるという快挙を遂げた、映画『ドライブ・マイ・カー』。そんな話題作を観に行ってきました。

映画業界に長く身を置いていた知人が「我が生涯におけるベスト作品」と賞したこの作品。3時間という大作ですが、個人的にとても刺さり、観終わって2週間が過ぎた今もずっと余韻を引きずっています。なので今回はかなり個人的な感想になりますが、よろしければお付き合いくださいませ。

映画は西島秀俊さん演じる舞台俳優兼演出家の家福と、その妻・音の関係を描くところから始まるのですが、全編を通して私が考えさせられたのは、愛する人との適切な距離感とコミュニケーション。

村上春樹の作品って常に「喪失感」がモチーフになっていると私は思っているのですが、この映画でも喪失感を軸に、登場人物たちが繋がっていきます。妻を喪くした家福、その妻の愛人であった若手俳優の高槻、家福の愛車の運転手を務めることになる女性ドライバーのみさき。その全員が、喪失と絶望感を味わったことのある人間たちです。

 

そしてバツイチである私は、離婚をはじめとする多くの喪失を味わったアラフィフの今だからこそ、たくさんのメッセージをこの映画から受け取ることができたような気がしています。

この映画では日本語だけでなく韓国語や英語、そして手話などの多種多様な言語とノンバーバル(非言語)コミュニケーションが使われるという斬新な表現方法が用いられています。たとえば劇中で俳優たちが同じ戯曲の脚本を読んでいるシーンでは、役者がただ棒読みしているだけの演技と、伝えたい気持ちを込めた聴唖障害者の手話による演技では、声を発していなくても後者の方が観ているものの心を動かすことに気付かされるのです。またそれらが伝えてくるのは、「言葉はいつも曖昧で自分にさえ嘘をつくけれど、それでも人の心を繋ぎ動かすのは、伝えたいという原動力である」ということ。

家福の妻・音は夫を愛しながらも裏の顔を持っているのですが、そのことについて、三浦透子さん演じるみさきが家福に向けて放つ、「人にはいろんな顔があって、それはどれも矛盾していない、ひとりの人間なんじゃないか」というセリフ。これにも、人の真実は言葉にはないのかもしれない、と気付かされました。

 
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