歌舞伎役者には芸の肥やし、梨園の妻は耐えるのみ?
歌舞伎界において不倫スキャンダルは、珍しいものではありません。あの役者もこの役者も確か隠し子がいるはずだし、女性との写真が週刊誌に載って謝罪会見をする、などというシーンもしょっちゅう見ている。
しかしそれは、夫側の不倫のケースです。歌舞伎役者は女性におおいにもてるのであり、たとえば玄人筋の女性にとって、歌舞伎役者と付き合うことは、自分にとっては芸の肥やし。歌舞伎役者にとってもまた、女性関係は芸の肥やし。……ということで容認される空気が、不倫に厳しい今の世であっても残り続けています。
対して梨園の妻は、耐える側です。夫の女遊びの火消しに回り、自身は子を産み育てて家を守り、最後には夫を看取って家のゴッドマザーになる……というのが、梨園の妻のイメージでしょう。
なぜ夫の女遊びは許されて逆はそうではないのかといえば、そこには「家の存続」の問題も関係していそうです。家を存続する上で、夫の側としては「自分の血を残している」という確証が欲しい。生まれた子供の父親は自分である、と男性が確実に信じるためには、妻に厳しい貞操観念を求めるしかありません。
各国の王室であれ歌舞伎の家であれ、継いでいくことが責務である家において、嫁に貞女の型がはめられがちなのは、だからこそ。その手の家では、夫に求められる以前に、自らにその手の型をはめることすら喜びを見出している感のある女性も、見受けられるのでした。
博子の型破りな「人生の創造力」と実現する体力
歌舞伎座に行くと、ロビーでは美しい着物姿の梨園の妻達が、ご贔屓達ににこやかに挨拶をしています。その華やかさに、つい「何だか楽しそう」と思ってしまいますが、しかし梨園の妻が実は大変な立場であることは、本書にもある通り。
博子も嫁いだ後、良き妻、良き嫁として家に尽くし、男の子を産むという最大の責務をも果たします。が、そんな博子が「田原」と出会ったのは、息子が3歳の時でした。
凡百のダブル不倫においては、互いの結婚生活の乾きを癒すために、恋愛遊戯が繰り広げられるものです。離婚をする気は無いけれど、家の外でのちょっとした刺激やときめきがないとやっていられない、と。
対して博子と田原は、その出会いによって、人生を激変させました。ちょっとした刺激やときめきが欲しいがためのラブ・アフェアではなく、すべてを捨てる覚悟がもたらされるほどの相手と、出会ってしまったのです。
本書ではその出会いを、その愛を、「奇跡」と呼びます。互いに若くはなく、背負うものは大きく、障壁は高い。しかしそんなことをものともしないほどの相手に出会い、愛し合ったことは奇跡なのだ、と。
博子はその時、常に息子と行動を共にしています。息子を連れて恋人と会い、離婚が成立した後は、息子を連れて家を出た。跡継ぎである息子を婚家に置いて出ることはせず、歌舞伎は続けさせつつ生活は自分達と共にという手法で、子供への愛と恋人への愛の両立を、貫いたのです。
博子という女性は、このように並々ならぬ“人生を創造する力”を持っているのでした。梨園の妻を務めただけあって常識的な女性である一方、彼女は常識にとらわれない人でもあります。梨園の妻としての道を外れる時も外れた後も、荒野の中に道を拓く創造力と体力を、彼女は持っている。「梨園の妻は、こんなもの」「不倫とは、こんなもの」という「型」を砕き、舅や姑も、夫も子供も納得させた上で全く新しい道を敷いてしまうクリエイティビティーは、
ベテラン作家・林真理子さんの“奇跡”
同時に感じたのは、作者である林真理子さんの、“引き寄せる力”の強さでした。なぜこの本を林さんが書くことになったかといえば、もともとは林さんと博子さんが、幼稚園のママ友だったから。ママ友の打ち明け話が、林さんの創作意欲を刺激したというこの出会いも、もう一つの「奇跡」なのではないか。
人と人とを結びつけるために当たり前のように存在する、結婚という制度。しかしそれは実は当たり前のものではなく、案外と変幻自在。制度とは、固定概念の一種なのかもしれない。……そんなことを考えさせる本書は、林さんというベテラン作家の、新たなる挑戦を感じさせる一冊なのでした。
『奇跡』
林真理子(講談社)¥1780
男は世界的な写真家、女は梨園の妻ーー
「真実を語ることは、これまでずっと封印してきました」
生前、桂一は博子に何度も言ったという。
「僕たちは出会ってしまったんだ」
出会ってしまったが、博子は梨園の妻で、母親だった。
「不倫」という言葉を寄せつけないほど正しく高潔な二人ーー。
これはまさしく「奇跡」なのである。
私は、博子から託された”奇跡の物語”をこれから綴っていこうと思う。
数々の恋愛小説を手掛けた林真理子が、一生に一度、描かずにはいられなかった特別な愛の物語。
38年ぶりの書き下ろし!
構成/川端里恵
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林 真理子
1954年山梨県生まれ。日本大学芸術学部卒。’82年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』が大ベストセラーに。’86年「最終便に間に合えば/京都まで」で第94回直木賞を受賞。’95年『白蓮れんれん』で第8回柴田錬三郎賞、’98年『みんなの秘密』で第32回吉川英治文学賞、2013年『アスクレピオスの愛人』で第20回島清恋愛文学賞、’20年第68回菊池寛賞を受賞。‘18年には紫綬褒章を受章した。小説のみならず、「週刊文春」や「an・an」の長期連載エッセイでも変わらぬ人気を誇っている。