もし自分が死んだら、一番苦しい場所に留まらず、
歩き去る努力をするんじゃないか


彩瀬先生がこの小説を書くきっかけとなったのは、実際に11年前の3月11日、福島県の沿岸部で被災されたこと。その目で津波を目撃し、そこから逃げるという体験をされました。

彩瀬:東日本大震災の当日にたまたま福島県の沿岸部にいました。そのときの状況について、当時あまり東北の被害状況が明らかになっていない段階で新潮社さんからルポを書いてくれないかと依頼があったんです。現地でどんなことが起こっていて、どんな物に不自由していて、どんなふうに困っているのかをルポルタージュにしてほしいという話でした。実際に私が東北の方にお世話になったことや避難所ではどんなふうに時間が流れていたとか、そういった個人の体験記を書いて提出したんですが、情報の精度を上げるためにそのとき私がひとりの人間として感じた恐怖や戸惑いは入れるべきではないと思ったんです。個人的な領域を書くならルポではなく物語だなと思って、被災した自分の内面の揺れであったり、処理しきれない不安、この世をどう捉えたらいいのか分からないという感覚を物語として消化しようとしたら、『やがて海へと届く』になったんです。

”むごい命の奪われ方”が繰り返し起こる世界で。残された痛みとの向き合い方【彩瀬まる】_img4
『やがて海へと届く』(講談社文庫)彩瀬まる

書き終えるまでに5年もの歳月が必要だったそう。被災したという記憶と向き合いながら書き進めることにツラさはなかったのでしょうか。

彩瀬:ずいぶん時間が経ってしまったので、ツラかったことは忘れてしまった節があるのですが……(笑)。それでも担当編集の方と、延々6時間くらい打ち合わせをしたのを覚えています。この物語を書くにあたって、死後の世界について考えたんです。さまざまな既存の宗教が、死後は輪廻転生するのか天国に行くのかといった、死後の世界の道標みたいなものを打ち立ててくれているのですが、そういうすでに打ち出されている死の捉え方ではなくて、むしろ生きている生活体感に近い死の描き方や捉え方ができないかというのをずっと編集さんと話し合いました。

その話し合いの中で、【死者が同じ場所にずっと留まっているという捉え方ではなく、そこから歩き去る】といった発想が生まれたんです。もしも自分が死んだら、一番苦しい瞬間を体験した場所にずっと留まらずに、歩き去る努力をするんじゃないかなと思い、きっとすみれもそうするのではないかという概念が生まれて、ようやく物語の核が定まり、動き出してくれる気配がありました。そのセリフは遠野くんが言うのですが、それが書けるまでが長かった気がします。

 

大切な誰かを失くすというのは、“突然に起こる”だけではなく、生きていく中で誰もが経験するもの。死者でありながらも、生きている生活体感に近い感覚で描かれるという新しい定義が、多くの人を救ってくれるのではないかと感じます。先生自身がこの小説を書くことで、乗り越えられた、救われたというふうに思われた瞬間はあったのかを聞いてみました。

彩瀬:この小説を書きあげるまで、自分が被災したときにいた高台にあった避難所の学校から見た景色が強いショックとともにずっと頭に残っていたんです。確かにそこに街があったのに、ひとつも光がなくなってしまった状態は、今思い返しても恐ろしい光景です。だから『やがて海へと届く』は、私が自分自身を回復させるために書かなければならなかったものだと思うんです。このような酷い命の奪われ方が実際に繰り返し起こるのが私たちの生きている世界なのですが、たとえ残酷ともいえる奪われ方であったとしても、生きて死んでいく命や魂がそれを超えていけるものだと信じていたいと気持ちがあり、その気持ちこそがあの本を書こうと思った動機です。

震災の当日、私はひとつ間違えば歩きやすくまっすぐに伸びていた海沿いの道を歩いていたわけで、仮にそのまま死んでいたとしても、絶対に一番ツラい瞬間から歩き出そう、死んだあとでも頑張ろうと思ったのではないかと。書いている途中でそういう気持ちが生まれてきたことで、自分が目の前で見たとても恐ろしかった景色に対して、自分自身の命が抗う手段をひとつ得ることができた気がします。