ブレイディみかこさんの『両手にトカレフ』は、中学生のミアを主人公にイギリスの子供の貧困を描いた作品です。これまで自身の視点からノンフィクションを書いてきたブレイディさんが手がけた初の長編小説は、自身の視線、立場に一番近い母親について、その名前を含めてほとんど描かれていません。「実は初期の頃はちょっと入れてたんですが、ばっさりカットしました(笑)。物語が散漫になってしまうのもあるけれど、大人の視線で書き始めたら言い訳になってしまう気がして」。大人にもこういう事情があるんだから、貧困は連鎖してるんだから、私も辛いんだから……そういう言い訳をしながら、社会から目を背けてはいないか。これは母親に限った話ではなく、辛くてもひと踏ん張りして子供を守ることこそ、大人の役目ではないかと、ブレイディさんは語ります。

 


貧困層の託児所で見た子供たちの日常は、
軽いエッセイに描けるものじゃなかった


ブレイディみかこさん(以下、ブレイディ):『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を書いた時、「家族の成長物語」というスローガンで宣伝されたんですが、私が書きたかったのは息子の学校の教育ーー底辺校と呼ばれた学校が、演技、音楽、ダンスなどの活動を充実させることで、なぜか子供たちの素行が改善されていったーーについて、「イギリスはこんなですけど日本は大丈夫ですか?」っていうことだったんですね。でもあれを読んだ息子が言ったんです。「すごく幸せな話に見えるけど、例えばクラブ活動とかに参加できない子達がたくさんいるよね」って。私もそれは分かっていたんですが、書かなかったんです。私が以前働いていた貧困層の託児所で接した子供たちも今は中学生。彼ら・彼女たちの日常は、軽いエッセイに描けるようなものじゃなかったから。

 

「小説という形しかない」と思ったのは、ミアの姿がふと金子文子の生い立ちに重なったから。父に捨てられ、母に捨てられ、無戸籍のまま学校にも通えず、父方の祖母を頼って朝鮮にわたり……貧困ゆえ、女性ゆえ、生い立ちゆえの差別の中で戦い続けた金子文子は、大正時代のアナキスト。ブレイディさんがその著作で何度も書いてきた人物です。

ブレイディ:ちょうど『ぼくイエ』と同じころに出した『女たちのテロル』でも彼女について書いたんですが、それは大人になってからの話。これまで書きたいと思って書けなかった彼女の幼少期が、100年後のイギリスで繰り返されてると思ったんです。それで私の知ってる子供たちのエッセンスをたくさん入れた主人公の日常に、文子を並走させらいいんじゃないかと。

今回の本では「これは貧困の話です」と宣言するために、「ミアはお腹がすいていた」という言葉から始まります。出版界の「希望需要」は大きいですし、今の時代にほっこりした話が読まれる理由もわかりますが、それでも厳しい話を読んでほしい。 やっぱり今起きていることを直視しないと何が問題なのか理解できないし、怒り、何とかしなきゃいけないんじゃないの? という気持ちにもならないですよね。