ミモレ読者の皆さま、ご無沙汰しています!
突然ですが、皆さんの人生の目標は何でしょうか?
私は、「ワガママに生きる」です。

 

小学生のころから、よく「ワガママ」だと怒られました。
思い返せば、本当のワガママを言った時だけでなく、気持ちや考えを正直に話しただけなのに、おそらく母の心身に余裕がない時だったのでしょう、頭ごなしに「ワガママを言うんじゃありません!」「そんなんじゃ嫌われるよ!」と片付けられてしまうこともしばしばでした。

この手の暗示はボディブローのように効いたようで、気づかないうちに、どこまでが大切にするべき自分の気持ちで、どこからが控えるべきワガママなのか、分からなくなってしまいました。

と同時に、気持ちを受け止めてもらえなかった積み重ねから、自分は誰にも理解されないのだな……という自己暗示もあり、他人に対して、気持ちや本音を口に出すことが難しくなっていました。

ワガママの境界線が分からなくなり、自分の思いを素直に話せなかった私が、「ワガママな自分」が嫌いだった私が、それを人生の目標にするようになったのは、いくつかの気づきのお陰です。

 


座りたかったら「おかけになりますか」と聞く


まず、社会人になってしばらくして、みんな結構好き勝手に言っている(!)ということに気づきました。

当時の私の基準では「それってワガママじゃないの?」と思っていたことも、本人はもちろん、周りもワガママとは感じていない様子。時にはワガママと思われていたかもしれませんが、どちらにせよ、その人のキャラクターや気持ちはちゃんと受け止めてもらっているみたい。

そんな出来事に何度も遭遇するうちに、私は人一倍ワガママなわけではないのかも? このくらいのワガママは普通なのかも? と思えるようになりました。

決定的だったのが、自分のためにやっているのになぜか褒められる、という経験。
たとえば、焼きたてのピザが届いたら、すぐさまみんなに配ったり、飲みものを買いに行く時に一言、何か要りますか? と聞いたり、共演者やスタッフと座るスペースをシェアしたり、空調の具合を尋ねたりすると、「気が利くね〜」「ありがとう」などと言って頂けるのです。

でも種を明かせば、ピザは、チーズが固まらない美味しいうちに自分が食べたいからだし、飲みものは、自分が買いに行くついでだし、言わばただのお節介。
座るスペースは、自分の足腰が痛くなったからだし、空調は、自分が敏感で、暑い(寒い)と感じているから。
言ってしまえば、「ワガママ」を我慢できないだけなのです。

ただ、その「ワガママ」の中には、ピザは、自分の分だけ先に取って食べても美味しく感じないし、飲みものは、もし誰かも欲しいものがあるなら役に立てるかな。
椅子は、大変なのはみんな同じなのに自分だけ休んでも気が休まらないし、空調は、個人差があることなのに、誰かに我慢を強いてしまうのは本意ではない。という気持ちも、確かにある。

自分の気持ちに素直なことが悪いのではなく、それをどう表現するかが大切。
自分さえ良ければいい、という自己中心ではなく、みんなはどうだろうか? という想像力を伴ってシェアすれば、「ワガママも方便」になっている、と気づきました。

早く食べたい! → 何か召し上がりますか? お熱いうちにいかがですか?……
疲れた! → お疲れではないですか? お掛けになりますか?……
喉乾いた! → 何かお飲みになりますか? おかわりなさいますか?……
寒い! → 空調はいかがですか? 暑かったらいつでも仰って下さい。……

何より、あれを言えなくて困った、辛かった、寂しかった、という経験が元になっているので、もし、かつての私のように自分の気持ちをうまく言えない人が、1人我慢することなく、少しでも居心地が良くなっていたとしたら、ちょっと嬉しい(これまたただのお節介ですが)。
こうして、「ワガママ」も悪くはないな、と思えるようになりました。

 
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