この間、年下の女性とおしゃべりをしていて、ひとしきり笑い合ったあと、まるでなぜ猫はニャーと鳴くのですかというような調子で、こう聞かれた。

「横川さんって、なんでそんなに自虐が多いんですか」

 


ついに来た。いや、なんとなくね、そろそろそういうことを言われる日が来るだろうことも、うっすらと覚悟はしていた。なんせ世はノーモア自虐ブーム。「自己肯定感を高める」とか「自分を愛する」とか、セルフラブなワードが世を席巻しだした頃からでしょうか。徐々に「自虐」というものが疎まれはじめ、人気の芸人さんが「自虐ネタは封印する」とわざわざ宣言する時代に。もはや自虐はするだけで“痛い”行為になりつつあります。

ほんの少し前までは真逆でした。ことを荒立てることを良しとしない日本社会。自虐は、空気を読むことが求められる現代の荒波を泳ぎわたるための必須スキルでした。どうでもいい人の心ない声に毎回怒ったり傷ついたりしても自分が疲れるだけ。だったら、自分から先回りして「いよいよ尿のキレが悪くなってきまして」とか「所詮、僕なんてゴミなんで」とピエロを演じた方が先手も打てるし、手っ取り早くウケもとれる。自虐は、相手にこれ以上は踏み込ませないという一線を引き、そのカウンターとして笑いまでかっさらえる、無印良品並みにコスパのいい自衛手段だったのです。

けれど、そうした他人からの失礼な振る舞いに、わざわざ自分で自分を落として愛想笑いなんてしていたら、相手をつけ上がらせるだけだし、自分の心まで傷つけてしまう。加えて、同じような属性の人間を笑ってもいいという免罪符を相手に与える行為にもなりかねません。だったら毅然とNOを突きつけるべきだし、こんな誰も幸せにならない負の遺産は我々の代で断ち切りたい、という世の使命感にもめちゃくちゃ共感できるし賛同したい。

しかし、同時にこうも思うのです。自虐ぐらい好きにさせてくれよ〜、と。

何かと価値観のアップデートが求められる昨今。多様性を尊重するとか、容姿イジリをしないとか、自分なりに日々学んではいます。他者を傷つけるような発言や行動はできる限りしたくない。それは完全同意。でも、ふっと自分の気持ちまで取り締まられているようなしんどさに、息がしにくいなあと感じるのも事実です。


実際、僕は過度に自虐に走っているというより、思ったことを素直にそのまま口にしているだけ。たとえば冒頭の年下女性との会話を例に挙げてみると、確かそのときの話題はオタク談義。推しからの認知に対して「僕が推しの目に映るなんて、推しの黒真珠のような瞳にヘドロをぶっかけるようなもの」などと口走ったら、ものすごく冷静に「なんでそんなに自虐が多いんですか」と問われました。やめて、そんな曇りのない目で僕を見るのは。

 

しかし現実問題、僕は自分にヘドロほどの価値も感じていないのです。むしろ並び称してしまってヘドロに申し訳ねえ。その気持ちを偽って「推しぴにファンサされた♪」と喜ぶのもなんか違う。推しが野原を覆う大輪のバラなら、僕はウエストを覆う大変な三段腹。推しが夜空をまたたくアルタイルなら、僕は便所のタイル。もうね、こういうフレーズなら延々と言ってられる。ある意味、めちゃくちゃ自分らしくもある。しかし、その自分らしさに今、令和の世がNOと言っているのです。

 
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