おはようございます。

お盆が始まりますね。皆さんは帰省されるのでしょうか。

私は、父方・母方ともに近所にお墓があるため明日以降お墓のお掃除をする予定です。夫のご先祖さまのお墓はお隣の県にありますが、コロナ対策をしつつお参り(お掃除)したいな。

さて、私は埼玉県北部にある小さな建設会社の三代目として勉強中です。会社を興したのは父方の祖父。

今日は、祖父についてお話させてください。

1927年、私の祖父・吉澤健次は埼玉県北部にある折原村(現・埼玉県寄居町)に、農家の九人兄弟の四男として生まれました。

おそらく1940年代の、吉澤家の写真。後列左から3番目が祖父の健次です。後列一番左がすぐ上の兄、弥生さん。このあと本文内に登場します。

健次が3歳のとき、麻疹(はしか)に罹患。当時この地域では、子どもが麻疹にかかっても医療機関を受診することは一般的ではなかったようで、健次も自宅療養のみで治癒をはかっていました。

しかし、運悪く病状が悪化。命はとりとめましたが、高熱にさらされた健次はほとんどの視力を奪われてしまいました。

光や動くもの・人のシルエットはぼんやりわかるものの、小さな文字は読めません。小学校に入学すると、後ろの席から黒板の文字は見えないため常に一番前の席に座っていたそうです(前の席に座っていても、黒板の文字を完璧には読めなかったもよう)。

しかし、4年生になったとき。新しく担任になった先生に「吉澤、なぜ背が高いお前が前の席に座っているんだ!一番後ろに行け!」と、怒鳴られたそうです。

それに腹を立てた健次は「二度と学校に行くものか」と誓い、それ以来一度も学校に行くことはありませんでした(←えっ、いいの?)。「一度決めたら絶対に引かない根性はこのころからだったんだな」と、私の父は言います。

健次の両親は、健次が麻疹にかかったとき病院に連れて行かなかった自分たちを責め、負い目を感じていました。そのため、学校に行かずブラブラしている健次を叱ることはなかったそうです。

小学校を卒業する歳になった健次は、手に職をつけるため、都内にある盲目のあん摩師が営む治療院へ住み込みで働きに出ることになりました。昔で言う「丁稚奉公」といったところでしょうか。

しかし、あん摩の修行に加え治療院の日常生活の手伝いは、健次には辛い仕事でした。文字が書けない健次は、兄弟子に代筆を頼み、すぐ上の兄である弥生(やよい)に手紙を書きます。

弥生兄さん、俺はもうこの生活はいやだ。帰ったらどんな仕事でもするから、家に帰らせてください。 

それを読んだ弥生は、自転車で健次を迎えに来ました。その距離、およそ100km。当時の道路状況と自転車の性能を考えると、片道8時間程度はかかったのではないかと思われます。

家に戻った健次は、それ以来どんなに厳しい農作業や家の仕事でも、文句を言わずに働いたそうです。

さあ、ここからが健次の本領発揮。

現在でこそハンディキャップを持つ方の権利や尊厳が重んぜられ、「バリアフリー」なども進んでいますが(いずれもまだまだ十分とは言えないと思うけれど)、数十年前の日本の田舎町において、ハンディキャップを持つ方がいろいろな意味で生活しづらかったことは想像に難くありません。

そんな中、健次は持ち前のバイタリティと根性で、健常者と同じように、いえ、それ以上に働きます。そして、ずっと実家の仕事を手伝うのではなく、いつか独立したいと考えるようになりました。

長くなりそうなので、今日はこのへんで。あぁ、「起業」まで書けませんでした。次回は祖父の青春時代と起業について書けたらと思います。

よろしければ、お付き合いください!

おそらく20年くらい前、祖父が70代のときの写真。立って歌っているのが祖父、一番右で三味線をひいているのが祖母です。「芸能友の会」なるものを立ち上げ、同世代の仲間と民謡や日本舞踊などを練習し楽しんでいました。これは発表会の様子です。高齢者福祉施設を慰問することもあり、「老老介護ならぬ老老慰問だね」なんて茶化していましたが、良い活動ですよね。