「まるで死ぬために生まれてきたようじゃないか」

「まるで死ぬために生まれてきたよう」と言われて――いのちを繋いだ先にあった医師の道と、死への肯定_img0
 

助ける側と助けられる側。なぜこうした立場が違うのでしょうか。自分はあちら側の助ける側へ行けないのだろうか。そうした葛藤をベッド上で感じていた感触が今も強く残っています。2~3歳で病院に入院していたときの、天井のシミの形も明確に思い出すのが不思議なことでした。そのように「わたしはなぜ生き残ったのだろう」と思い出したときに、二つの主要な体験がありました。

一つ目は、わたしが病気でベッドに寝ていて動けなかったときのことです。天井しか見られずに病棟で横たわり、天井のシミのパターンを見ながら時間を持て余していました。すると、ある看護師さんが「まるで死ぬために生まれてきたようじゃないか。何のためにこの子は生まれてきたのだろう。本当にかわいそうな子だ」と言っているのが聞こえたんですね。

そのときに初めて「自分は本当に、かわいそうな子なんだろうか」という疑問が湧いてきたのです。「かわいそう」という概念が当時はよく分からなかったと思うのですが、少なくとも、わたしはそれまで一度も自分を「かわいそうな子」だと思ったことはなく、その言葉が醸し出す雰囲気、憐憫や憐みや悲しみなど、さまざまな感情が混ざったものに対して当惑したのだと思います。

 

「自分はかわいそうな子か?」一晩中悩んで辿り着いた結論


そのときに、一日中葛藤しました。自分が「かわいそうな子だ」と思えば、看護師さんはきっと喜ぶんじゃないか。でもそれが正しいのか……と思い、また振り子のように葛藤を続ける。そうした心理的な動きを何度も何度も繰り返しました。

でも、自分はベッド上の生活でもそれなりに幸せだったのです。いろいろなことを空想して冒険していて、見た目よりも案外自由の境地にいました。そもそも、誰かの人生と比較するものでもありません。一晩悩んだ結論として、「自分はかわいそうな子じゃないんだ」と自分の意志で決めたことを覚えているんですね。そうした記憶が不思議と蘇ってきました。