「死の実感を失い過ぎている時代」に生きて

「まるで死ぬために生まれてきたよう」と言われて――いのちを繋いだ先にあった医師の道と、死への肯定_img0
 

わたしにとっては「生を考えることは死を考えること」であり、「死を考えることは生を考えること」です。そうした生と死をすべて含んだものこそが「いのち」なのですから。

2011年3月11日、東日本大震災が起きた直後から、現地でできる限りの医療のお手伝いをしました。亡くなった多くの方のご冥福を祈りながら、「やはり死を深く学び続けなければいけない」と、改めて考えさせられました。

 

そこで改めて学び始めたのが、日本の伝統芸能である能楽でした。能楽には謳(うた)いと呼ばれる言葉や歌の部分と、仕舞いと呼ばれる舞いや動きの部分と、囃子(はやし)と呼ばれる笛・小鼓・大鼓・太鼓による音楽や演奏の部分があります。それぞれが渾然一体となりながら物語が進行し、死者の鎮魂を中心に据えた芸能です。医療に欠けていると思っていた「死」に関する多くのことは、医学よりもむしろ能楽から学びました。

能楽が現出を目指す「あの世とこの世の接点」は、現代社会には失われていると感じます。あの世とこの世は確かに異なる世界ですが、その異なる世界は連続しています。生と死とが接続せずに分断されていることは「いのち」の実相を見えなくします。いまここで受け取っている風景も含めて、すべては死者から託されたものです。

生きているものは必ず死を迎えます。現代は死者への敬意や死の実感を失い過ぎている時代のように思えます。高度に分業化された社会の中で、いのちの実相が見えなくなっています。死者への敬意や礼節があってこそ、生きている者たちは「いのち」の裂け目をつなぐことができるのではないかと思いながら、わたしは今日も医療現場に立っています。

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『いのちの居場所』
著者:稲葉俊郎 扶桑社 1870円(税込)

感染症、災害、戦争と、苦難や不安に覆われた社会で生きるとは何か、そして「いのち」とは何かを医師である著者が問いかける。人や自然はもちろん、ウイルスにも「いのち」はあるーーそう考えることで見えてくるこれからの医療や社会のあり方とは。東大病院では心臓の専門医として患者と向き合い、現在は軽井沢病院の院長を務める著者が、医療分野と芸術との接点、さらに現代社会の課題を浮き彫りにしながら、丁寧にことばを紡いでいく。



撮影(著者近影)/Yuki Inui
構成/金澤英恵

 

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