私が幼いころ(って結構昔ですが)は、軽はずみな発言をした政治家はそれ一発で、大臣であれば辞任していたし、ヒラなら党籍離脱とか議員辞職していました。その時代の政治家が清廉潔白だったとは全く思いませんが、とりあえず国民が眉を顰めるようなことや、憲法を軽んじるようなこと、嘘や犯罪行為に繋がりかねないことをすれば、党は何らかの処罰をしていた様に思います。なぜならば税金で給料をもらっている政治家は、国民の暮らしのために働くもので、社会的に「悪」とみなされること、「悪」に近づいたと明るみに出ることは許されざることだったから。少なくとも表面的には「善」としての体面を保つことは当然のことだったからです。

このあたりが、安倍政権では徹底的に壊されてしまいました。「ご飯論法(論点すり替え)」「同じこと繰り返すぶっ壊れたレコード的説明」「議論なしで押し切る」「強行採決」「閣議決定」の他、「出処進退は議員本人が決めること」「職責を全うすることが自分の責任の取り方」といった言い訳にもならない言い訳、挙句の果てには「何が悪いのか?」と開き直るなど、どれもこれも安倍政権下で当たり前になってしまった。

 

そして最近、そこに新たに加わりそうなものが2つ。ひとつは「統一教会関連の自民党によるスッカスカの自己点検」を通じて出てきた「当人が亡くなっているので調査しきれない」という理屈です。もしこの言い訳を受け入れてしまえば、自民党はこれ幸いとばかりに「安倍元首相がらみのあらゆる事件」を、この一言で終わらせることも可能です。でもそもそも誰かの「後ろ暗いもの」を調査するときに、本人の証言はそれほど重要ではありません。なぜなら本人の口からでるのは、ほとんどが言い訳や言い逃れだからです。特に政治家の評価は言葉と行動、そして金の流れさえあればできること。「できない」と言い張るのは、無能なのか、別の理由があるかのどちらかです。

もうひとつは「国葬」にまつわる閉会中審査で岸田首相の口から出てきた「その時の国内情勢、国際情勢によって評価は変わるから、その都度、政府が総合的に判断する」という言葉です。自身が「国葬は具体的に定めた法律がない」と認め、だからこそ決定は国会の議論が必要なのにそれをすっ飛ばしているわけですね。こんな理屈を許せば、政府があらゆることを「その時その時の都合で」恣意的に運用しちゃえるのでは?

今の日本には「どうせ国葬やっちゃうんでしょ」「どうせ調査しないんでしょ」といった「どうせ」が蔓延しています。でも、だからといって追認すれば、政治家は「どうせ諦める」「どうせ忘れる」と高をくくり、世の中はどんどんと悪い方向に向かいます。買収疑惑、後だしの巨額予算、贈収賄など、次々と明るみになる東京五輪がいい例。大きな選挙のないこの3年は、まさに私たちの「どうせ」が試されているのかもしれません。

 

前回記事「「セクハラが“悪ノリ“では許されない時代」になっても、擁護論が無くならない違和感について」はこちら>>

 
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