警察の役割を規定する警察法第二条には、以下のような言葉があります。
「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。」
ええ、そうです。渋ハロへの出動は、警察の責務(責任と義務)なんですね。たとえそれが前もって企画されたイベントでなく、主催者からの依頼なんてなくても、いやむしろ主催者がいないイベントであればこそ、警察は主体となって「公共の安全と秩序の維持」にあたる責務があるわけです。おそらく渋ハロの警察動員はここ10年くらいだと思いますが、それ以前に「最近のハロウィンの夜の渋谷は混んできて危ないな」とか「ワールドカップの期間中はヤバイ」というのを見てきた地元警察が、その経験を踏まえて警察の責務としてやってるわけです。もちろんありがたいし、頭が下がります。私自身、若者たちには「ええかげんにせえよ……」という気持ちも持っています。でも「ご迷惑かけて本当に本当に申し訳ありません!!!」とまで恐縮する必要もないと思うのは、こういうことのために、私たちは税金を払っているからです。
もちろんこれは日本も韓国も同じこと。「マニュアルがなかった」と言い訳をしているようですが、マニュアルにない事態には対応しないとか、対応できない警察って、そんなん意味あるの? って話ですし、ましてや事件が起こる何時間か前から何十件もの通報があったけれどなんら対応していなかった、なんて聞けば、「もう少しましな対応はできたんでは」と思うのは当然です。「事故を政争の具にするな」とか言う意見については、はあ? って感じしかありません。どこの国でもどの時代でも、なんだって政争の具に使うのが政治家で、まったくもって別問題です。どこに責任があるのか、とるべき対処があったのか。それを追及することに、なんら悪などありません。
国民が政治の主体であることを理解している韓国と、そうとはいえない日本
とはいえ私が言いたいのは「警察が悪い!」ってことじゃなく、冒頭で書いたこういう事態に対する日本人の反応、そこにある「自己責任論」についてです。何かが起こった時に、日本人が「大きいもの」ーー例えば、会社、自治体、国、政治の責任に思い至らないのは、基本的人権を擁する自由と民主主義の社会よりも、鎌倉時代から江戸時代に連なる封建主義社会の、つまり支配者にたいする臣下とか小作農の(つまり上下関係の)精神性です。臣下や小作農にあるのは権利ではなく、お上から求められる奉公と忠誠、そして押し付けられるままに支払う年貢のみ。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が描くのがまさにこの体制が確立した時代で、自分にたて突く御家人を次々排除する北条義時(小栗旬)を見ても、それがまったくもって民主主義でないことがわかります。義時が守っているのは、御家人(=国民)でなく、国体=つまり国の体制だからです。
1日にソウルで行われた会見は「全ての質問がなくなるまで」行われ、大統領に代わってハン・ドクス首相が「国民の安全に対して最終的に責任を取り、無限大に責任を負うのが我が政府」とコメントしています。その言葉が真実か否かは引き続き目を光らせる必要がありますが、そうした言葉が出てくるのは、大統領に「ここで下手を打てば国民によってその座から引きずり降ろされる」という認識があるからです。韓国社会が本当に民主主義的かどうかはさておき、少なくとも韓国人は「国民」が政治の「主体」であることーーつまり「民主主義」を理解しています。かたや日本では、政治や社会に対する誰かの怒りの声を、同じ国民が「自己責任だろ」とつぶしています。為政者にしたらこれほど都合のいい、チョロい国はありません。
前回記事「安倍元総理「国葬儀」デモに参加して感じた、ぼわーっとした一体感。激しい抗議だけが「政治参加」じゃない」はこちら>>
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