僕は男でありながら男の性が、片っ端から受け入れられなくなった


その当時、彼らが頻繁に発言を引用する2ちゃんねる系キュレーションサイトやリンク先サイトでは、「二次エロ系ゲーム/コミック」(二次元キャラクターによるアダルトコンテンツ)のバナー広告が異様に多かった。思い返しても、それは心底不快なものだった。明らかに幼女、ローティーンを描いたように見える「萌え絵」に、強制性交や痴漢、小児性愛を想起させる文字が躍り蠢く気色の悪いGIF画像の数々……。

ネット右翼的な投稿のリンクを踏めば、必ずそうした不快な広告が否応なく目に飛び込む体験を重ね、さらにここ数年のネット右翼属性と思われる人々の激しいフェミバッシングを見る中で、僕の中では「ネット右翼=ミソジニストでありチャイルドポルノ肯定者」という、少々行き過ぎたバイアスが強く立ち上がったわけだ。

第三波までのフェミニズムには、1990年代のライオットガール(フェミニズムを基調としたパンク音楽のムーブメント)がかすった程度で特に感応しなかった僕だが、それから15年以上を経て訪れた第四波では大いに自分の中で価値観の変容があったし、それに呼応するように拗らせた僕のミサンドリー(男性嫌悪)は、かなり激しいものだったと思う。

かなりの期間にわたって、僕は男でありながら男の性が、性加害に無意識なコンテンツのすべてが、片っ端から受け入れられなくなった。

SNSやYouTubeなどの視聴中に、「少女と肌の露出」を想起させる広告を少しでも見かければ、片っ端からブロックして不快広告として運営者に通告した。敬愛する手塚治虫作品の中でも最も好きだった『アドルフに告ぐ』を読み返そうとして、序盤で主人公が亡き弟の恋人を強姦するシーンがあることに気づくと、作品そのものが激しく劣化したように感じ、その後を読み通す気力を失ってしまった。アニメやドラマで「台所で働く妻とテーブルで新聞を読むだけの夫」の姿を見るだけで、やはりその姿にイライラし、制作者との価値観の差にがっかりする始末……。

父を「ネット右翼」認定し、心を閉ざしたまま看取った僕の後悔_img2
写真: Shutterstock

人は自身の中で価値観の大きな変容が起きたとき、新たに「それは過ちだった」と気づいたものに対して、怒りや大きな情動を覚えることが多い。かつて無自覚だった自身への自戒と同時に、旧来の価値観のままでいる者への過剰に強い批判の感情が湧き上がり、それがある程度落ち着くまでには、少々時間を要するものだ。