人生のいろいろを経験した熟年世代にこそ響く『エブエブ』


『少林サッカー』と『マーズ・アタック』が大好きで、『ララランド』の最後10分に泣かされたもののあのロマンチックな風味づけに違和感を覚えずにいられなかった私には、エブエブのカオスはじわじわと刺さりました。しかし中には、「自分は一体何を見せられたんだろう?」と困惑して映画館を後にする人もいるでしょう。そんな人は、帰りにプログラムを買って監督のインタビューを読むことを強くお勧めします。しかし映画を見る前にプログラムを読む習慣のある人は、あえて読まずに見てください。とにかく脈絡なく全てが始まるので、そこに身を投じる体験をぜひ。

そもそも私は、同作で主人公の夫を演じ、ゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞したキー・ホイ・クァンのあまりにも率直なスピーチに胸打たれ、これは見ねばと思ったのでした。50歳をすぎた彼が、人気子役の苦しみと失意を吐露し、そんな自分に再び演技のチャンスをくれたことに感謝すると声を震わせて語った受賞スピーチは、人生のいろいろを経験した熟年世代には涙なくして見られません。

【小島慶子】私が映画『エブエブ』と『エゴイスト』に涙した理由。「人とつながること」の苦しさと希望_img0
写真:REX/アフロ

そう、あのキー・ホイ・クァンですよ! ’70年代生まれの皆さんには聞き覚えがある名前でしょう。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(’84)、『グーニーズ』(’85)で活躍した可愛らしい少年。数年前にふと、彼はどうしているかと検索して、今は俳優ではなく映画制作のスタッフとして仕事をしていることを知りました。その1971年生まれの彼が、30年以上もの時を経て俳優に復帰したのが本作です。アカデミー賞で助演男優賞を受賞した際のスピーチでは、難民ボートからハリウッドに至った自らの人生を振り返り、自宅でテレビを見ている母親に「母さん、オスカーをとったよ!」と涙ながらに報告しました。

 

アカデミー賞の95年の歴史で初めてアジア系の女性として(白人以外の女性としては2002年のハル・ベリー以来)主演女優賞をとったミシェル・ヨーは、マレーシア出身の60歳。やはり受賞スピーチで声を震わせ、クアラルンプールで授賞式を見ている84歳の母親にオスカーを捧げました。そして女性たちに「もう盛りをすぎたね、なんて誰にも言わせないで。諦めないで!」とエールを送りました。胸熱です。

彼女が演じる主人公のエヴリンは、中国から老父が来るというのに税務署の監査が入るわ夫がランドリーの袋にふざけた目ん玉をつけるわ娘がガールフレンドを連れてくるわでとっ散らかり、いくつもの宇宙(マルチバース)を行き来して、カンフーで巨悪と戦うことになります(話が飛躍しているけどそういう話なんです)。全ての宇宙には、それぞれに全く異なる人生を生きる自分が……生命が誕生しなかった世界で石になっている自分も……存在しています。その全てが本当の彼女で、どの宇宙も同時に存在しているのです。

スケールは比べ物にならないものの、9年前から日本で一人暮らしをして働きながらオーストラリアで暮らす家族のもとと行き来をしてきた私は、41歳から2つの宇宙で同時に生き始めたような感覚です。オーストラリアでは日本での立場とは全く異なる、寄るべないアジア系移民。一つの体で同じ時間を生きているのに、8000キロ南に移動しただけで、全然違う人生になってしまう。母語の通じない土地で暮らすアジア系移民の視点で見ると、この作品は一層近しく感じられます。なにしろ主人公のエヴリンは、中国系アメリカ人のダニエル・クアン監督が自らの母親をモデルにしたという、生活を回すことで頭がいっぱいいっぱいになっているADHDの傾向のあるアジア人の母親です。え? それ私だよねと思いましたよ。

おまけに私は中学生になってしばらく経つまで、全ての過去は現在進行形だと思っていました。平安時代や鎌倉時代は現在も続いていて、自分はたまたまその時間の層を縦に通り過ぎてきただけなのだと。どうやらそうではないらしいことになっていると知った時には非常に残念でした。なんで終わっちゃってるんだよ平安時代。今もどこかにあると思っていたのに! でも、終わっちゃったって確証はないじゃないですか、通り過ぎてきちゃった者の目にはそうとしか見えないだけで。つまり地面を掘ると遺跡の出てくるこの世界とは別の次元で平安時代が継続している可能性をどうやったら否定できるんだよと、子供ながらに納得がいかなかったんですね。だから大人になってからマルチバースというものを知った時には非常に愉快な気持ちになったものです。じゃあまだどこかに平安エラをやっている宇宙もあるかもしれないねと。ああサイエンスポリスの皆さん、聞き流してくださいね。素人の馬鹿げた妄想です。

映画のシュールな展開の中で、ぐるぐる回る洗濯物みたいに目を回しているうちにだんだんわかってきます。愛は尊いんだけど、ときに重いしくどいし鬱陶しい。作中では母の愛が炸裂していて、私はちと闇堕ちした娘に共感しました。湯を沸かすような愛よりも、いつでも人に優しく、親切に。とりあえず手近なものに目ん玉つけて可愛くするとかね。全てを呑み込む虚無のベーグルの暗い穴は、これから私たちが落ちてゆく世界のようで不吉な予感があるのだけど、大丈夫、忘れないで。私たちはカンフーで闘うより、崇高な愛を語るより、もっと簡単な方法で、こんがらがったままでも人間らしくいられるということを。