こんにちは、エディターの昼田です。

 

2020年冬に山形に移住してから、3回目の春です。先週、桜を見に行ってきました。

こうなることは想定していたのですが、昨年度の年収は2年前の半分以下でした(笑)。仕事のベースは相変わらず東京。物理的な距離が、仕事の減少に影響していました。しかも私、大黒柱として一家を背負っている立場。大金持ちでもない私は、どんどん減っていく通帳の残高を見ながら、不安や焦りがでないはずがなく。

山形・霞城公園の桜。

稼ごうと思えば、いくらでも手はあったと思います。でも私、やりたくないことはいくらお金のためであっても、やりたくない。腹を括っていました。
私の人生に何が必要で、何がいらないか。断捨離はクローゼットだけの話ではなくて、一枚の洋服を捨てたあの日から、今も取捨選択は続いています。

 

何かを選ぶということは、何かを選ばないこと。
収入を失うかわりに、私が得たかったもの。

まずは自然豊かな山形のいいところを思いっきり味わいたい。娘はあっという間に大きくなってしまうのだから、今しかできないことを経験させたかった。

 

海に山、川。たくさんの自然に触れるために、山形の端から端まで、いろんなところに行きました。図鑑の世界もいいけれど、オニヤンマを追いかけまわし、カブトムシを育て、初めて見るウニにびっくりした。ここにしかない郷土料理を食べ、旬を知り、美味しいとは何か。生きるとは何か。5才の今、答えが出なくてもいい。でもきっといつか、自分に宿した「点」は必ず「線」になって繋がる日がくるはず。

親以外にも、自分には”絶対的な味方”がいることも知ってほしかったんですよね。

娘の一番の仲良しは祖父。

かつての私がそうだったように、祖父母のそばで暮らし、愛情をたっぷり受け取って欲しい。

経験も愛情も、お金では買えないのだからー

今しかできないことのために、私は「稼ぐ」を捨てたのです。人生100年時代だとしたら、こんな時期があってもいいじゃないか。休憩したらまた「稼ぐ」を選べばいいだけ。いつだって私たちはどんなことも取捨選択できる自由な存在なんですよね。

 
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