母への憧れがいつのまにか「足枷」に


フリーランスで働いていた愛佳さん。産休・育休の制度はないので、休業状態となり、案件の受注をストップして休業状態に。

それはいわば「終わるあてのない育児休業」でした。

「お話は少し変わりますが……私の母は、専業主婦として私と弟に最大限のパワーと愛情を注いで育ててくれました。父が事業をやっていて、地方を飛び回っているような人で、家庭はノータッチ。そのぶん母が一分の隙もないくらいに一生懸命育ててくれました。母を尊敬しています。だからこそ、私の中でそれが揺るがない理想像でした。

一方私は、子どもを産むまで家事をする暇もないくらい仕事人間だったのに、イメージだけは完璧な母像を追い求めていたんですよね。子どもは可愛くて、自分の楽しみや仕事はぜんぶそっちのけで育児に取り組みはじめました。でも現実は、毎日刺激のある仕事をしていたのに、朝から晩まで赤ちゃんのお世話です。

次第に、夫に対してひがみっぽい気持ちが生まれてきました。夫は夫なりにたくさん手助けをしてくれたと思うんですが、2時間おきに目を覚ます夜間授乳は私しかできないし、夫は朝8時になったら外の世界に出ていける。『いいよね、剛くんは朝になれば逃げられて』と夫に言葉をぶつけるようになりました」

 

冷静なときは、そんな言い方をするべきじゃないことは愛佳さんにもわかっていました。しかし人一倍真面目で責任感の強い愛佳さんは、自分を追い込んでしまったようです。 

 

なんとかしてその精神状態から脱しなくては。娘さんが1歳になった頃、愛佳さんは縋るような気持ちで外の世界との接点を持つようになります。まずは地域の子育てセンターで出会ったママ友との交流。子育て中の友人に連絡して、情報交換。

一見幸せな母そのものの生活でしたが、当時の愛佳さんは仕事に復帰の予定がない焦りを抱えていました。しかしこれまで通りに働くのはまだ難しいことは明白です。なぜならば、どうしても完璧な母像が愛佳さんの脳裏にちらつくのです。でも保育園に預けて、以前の働き方に戻る決心はつきません。

悩んだ愛佳さんはスキルの棚卸しをしたと言います。行動力やPR力、司会力を生かして、まずは地域センターで子育てサークルを立ち上げます。そこで有識者を呼んで、早期教育の勉強会もスタート。子連れOK、ワンコイン参加費、などキャッチーな仕組みで軌道にのり、区役所の公認のような形になっていきました。

「居場所が見つかった! そんな気分でした。娘と一緒にいながら活動できるうえに、地域のみなさんの役に立てる。孤独が癒されて、毎日が色づいているような気分。これで夫に当たり散らすこともない。

実際に生活はいったん、とても穏やかになりました。娘は3歳になり、私ひとりでも連れてどこへでもお出かけができるように。相変わらず夫の仕事は忙しく、深夜帰宅でしたから、私は余るエネルギーを子育てと地域の活動に全て集中させました。考えてみれば、そこから数年間、夫と2人で出かけたり、じっくり話したりすることはありませんでした。たまに休日に話す内容も、子どものことだけ。

それでも自分はうまくやっているほうだと思っていました。自分の機嫌は自分でとっている。子育ては順調だと。産後クライシスをなんとか乗り切った、そんな気分でした。

……滑稽ですよね。私たちは、そのとき全然違うものを見ていたんです」