孤独で無謀な挑戦


中学、高校と合唱部。公立だったけど、強い学校で、ソプラノソリストとして高3のとき全国大会に出た。ピアノも習ったことがなくて、声だけは少し自信があったけど、部活で褒められた程度で音大なんて無謀すぎる。小さい頃に楽器を習っていなかったので、楽譜だって読むのが遅い。

高校の合唱部のなかに数人、音大志望の子がいて、彼女たちがこれでもかというほど個別レッスンを受けているのを知っていたから、私は高校を出たら就職することを疑いもしなかった。ちょうど進路選択の頃に母が亡くなってしまって、どうして優雅な音大志望などと口にできただろう。

でも卒業式の日、顧問の先生が私に言った。

「皆川さん、音大に行きたいなら、何歳からでも行けるよ。先生もね、2年社会人やってお金貯めてから藝大に入ったんだよ。本気なら、諦めないでね」

家庭の事情を含め、私の声も、憧れも、全部知っている先生の言葉は、半分やけっぱちでお金がある同級生をただ眺めていた私に喝をいれた。

「大事な番号を忘れてしまった...」記憶を失くした入院中の祖母。奇妙な伝言を貰った孫が起こすミラクル_img2
 

そうだ、境遇を呪って、言い訳をして、どこに行こうというのだろう? 私の一度きりの人生なのに。

お金がないことも、コンサートを開くような歌い手にはなれないであろうことも、全部言い訳。働いてお金を作ればいい。歌手になれなくたって、好きな歌を勉強していれば、近い仕事ができるはず。少なくとも、他のどんなことよりも、楽しいんだから。なくすものはない。

内定をもらっていた工務店の事務が、副業可能だと聞いて、私は躊躇わずに仕事を掛け持ちした。

 

ほどなくしておばあちゃんに認知症の症状があらわれ、老人ホームや病院を行ったり来たりするようになる。その頃の私は必死過ぎて、正直おばあちゃんにかまっている余裕がなかった。だからおばあちゃんは音大に行きたいという私の夢を知らない。

仕方ない。私に家族はもういない。たった一人で生きていくのだ。

ゼリーを少しずつ、でも全部食べたおばあちゃんは、満足した様子で小さく首を振った。良かった、また買ってこよう。ベッドをもとに戻すと、おばあちゃんは自分で布団を首元までかけて、お休みの姿勢に入る。せっかく孫が来てもお昼寝! 私はおかしくなって、「虫歯にならないかな?」と笑いながら、買ってきた紙パックのお茶をストローで飲ませてあげた。

すると、おばあちゃんは、布団をめくって自分の横の空いたスペースをぽんぽんとたたいた。小さい頃、泊まりに行って一緒に寝た記憶がよみがえる。優しい仕草だった。

おばあちゃんは、私のことは忘れちゃったけど……しんのところはなにも変わってない。

「あんた、つかれてる、みたいよ。ここで、おやすみ」

すこし舌がもつれていたけれど。久しぶりのおばあちゃんの声。

私は嬉しくて、少しの間、おばあちゃんの寝息が聞こえるまで、ベッドのはじに顔を伏せ、幸福な寝たふりをした。

おばあちゃんが肺炎で亡くなったのは、その1カ月後。病院に駆けつけたときは、もう意識がなくて、そのまま眠るように亡くなった。

お医者さんの診断や清拭が終わると、おばあちゃんは安置室に移された。私は手続きに追われる叔父たちを少しでも助けようと、病室のベッドの所持品を紙袋にまとめる作業を買ってでた。その方が、幾分、気がまぎれる。

4人部屋はふたつ、ベッドが埋まっていた。祖母の向かいのベッドの人を起こさないように、なるべく静かに作業をしていると、カーテンがあいて年配の女性がひょっこりと顔を出した。

「千代ちゃんの、お孫さん?」

「あ、はい……! あの、祖母がいつもお世話に……」

なっています? なっていました?

祖母は昨夜からICUに運ばれていたから、同室の方は祖母の死を知らない可能性がある。病院で、哀しい知らせはリアリティがありすぎる。なんと告げるべきだろうか?

「良かった……! 千代ちゃんの最期には会えたんだね? ここ1か月くらい待ってたけど、お孫さんらしき人がこないからさ、千代ちゃんの妄想かと心配してたのよ。ほら千代ちゃん、ちょっと記憶がまだらだし、知らない人の前だと恥ずかしがってしゃべらないからね」

「え!? 恥ずかしいからしゃべらなかったんですか?」

私は思わず祖母の面影につっこんだ。

「頭もさ、しっかりしてる日とすっかりぼけちゃってる日があるのよ。私みたいに毎日一緒にいると分かるんだけど。ご家族は週に1回くらいだったらね」

「……すみません、そうですよね」

私はうなだれた。罪悪感が再び湧き上がる。おばあちゃんは間に合わなかった私や家族を恨んだに違いない。

「いいのよ、いいのよ。若い人には自分の人生があるからね。それを犠牲にしてほしいなんて私たち老人も思ってないわよ。それよりも、千代ちゃんから孫が来たら伝えてほしいって伝言があるのよ。なんか悟ったのかもしれないね」

「え! 伝言! 私ですか……? でもおばあちゃん、私のこと忘れちゃってたから……」

「そうかねえ? ま、細かいことは忘れちゃったみたいだけど、頭の霧が晴れた日にね。今度孫が来たら、私がボケて伝えられないかもしれないから伝えてって。『私の部屋の、キキララの宝箱にいいものがはいってるから、足しにして』と言ってたわ。

そこに小さい錠前がついてて、数字を3つ並べると開くらしいんだけど……困ったことに千代ちゃん忘れちゃったんだって。千代ちゃんにとってすごく大事な番号にしたらしいんだけどねえ」

キキララの宝箱には覚えがあった。私が小学生のときに、おばあちゃんのお誕生日にあげた、缶の宝箱。たしかに、小さな錠前がついていた。

「わかりました。ありがとうございます。落ち着いたら、遺品整理のときに貰ってきます」

次ページ▶︎ さっそく手にした懐かしい缶の宝箱。その中にはいっていたものとは!?

春の宵、怖いシーンを覗いてみましょう…。
▼右にスワイプしてください▼