逆境に生きる「ハマグリ」たちをそろそろ海に戻してあげたい
で、一風呂浴びて開いたスマホの画面には、ジェンダーギャップ指数ランキング125位の速報が。さらには横須賀市長の謝罪のニュースが目に入りました。「女性のDNAの中に虐げられた歴史があり、その怨念が今の社会を構成している/その(怨念の)反動で男女共同参画社会という話になったが今はその念みたいなものを浄化しなければいけない時代/女性市議を増やす意味がわからない」などと発言して批判され、「不快な思いをされた人にお詫び」の会見。お気持ちに詫びるばかりで、差別したことを認めない定番のパターンです。一体いままで何人の政治家の形ばかりのお詫びを聞いたことでしょう。女性を虐げてきた男尊女卑の習俗がいまもこの社会で生きていることを、そのたびに思い知らされます。
暗澹たる気持ちで向かった先は、ある映像作品の鑑賞会でした。進行役の女性は「辛い場面もあるけど、それに負けずに強く生きる女性を描いた作品です!」と笑顔で紹介。フェミニストの女性たちからも感動したという声が寄せられている作品だそうです。
結論から言うと、映像作品としては極めてクオリティの高い内容でした。だけど「逆境を生き抜く強い女性に感動」っていう紹介の仕方はもうたくさんだよ、と心底思いました。身分制度、ムラ社会、家父長主義、貧富の差、男尊女卑、そのいずれもにおいて弱者となった一人の女性がこれでもかというほど酷い目に遭わされ、最終的には既存の社会から隔絶された場所に追いやられる形で「自由」を得る……という筋書きは、これまでもさまざまな作品で描かれてきました。
仕事で映像作品のコメントを求められる時などにも、なぜか「差別や迫害を描いた作品だけど、その理不尽さではなく、それを生き抜く一人の女性の強さに注目して希望を語ってください」と言われることが多いのです。非常に多い。ある作品では「これは奴隷制と女性差別を扱っていますが、観客が引いてしまうのでどちらも触れないでください」と言った女性の宣伝担当者もいました。それはもはや作品に対する冒涜だろうと抗議して撤回してもらいましたが、そんな例はいくつもあります。
きっと全く悪気はないのでしょう。でも映像作品は、作品自体の出来の巧拙以上に、なぜいまこれを描くのか、なぜ今これを見るべきなのかというメッセージこそが、社会に対する意思表示となります。弱者女性を描いた作品で、「辛い境遇で強く生きようとする彼女の姿に感動しますよね!」と盛んに宣伝するのは、差別や性的搾取などの構造的な問題から「一人の強い女の子」のパーソナリティへと観客の視点を誘導し、感動ポルノ的な消費を喚起する手法ともいえます。それは、差別や貧困は個人の努力で克服できるはずだというマジョリティの幻想を強化することにならないのか。
もう、いい加減「強く生きる少女に感動」「女性の強さに胸打たれる」というのをやめませんか。それは遥か昔から本質的には変わらないこの社会での女性の扱いを、他人事の涙目で眺めているだけじゃありませんか。逆境に負けずに意志的に生き抜く主人公に共感するのはいい、でも「感動したー、泣けた、元気をもらった」などと呑気に言えるのは、それが男性でも女性でも、自分は苛烈な性差別を受ける当事者ではないと思っていられるからかもしれません。あるいは、女性差別を当然のものとして内面化してしまっているのか。
私はもう、うんざりです。女性が虐げられる様を見て、こんなのねえよ、と思う。逞しく生き抜いた主人公をリスペクトしつつ、「でもなんで彼女はあんな目に遭わなくちゃならなかったの? どうして“強く生き抜”かねばならないような状況に追い込まれたの? これ、今も変わっていないよね、もうたくさんだよね、いい加減、こんな男尊女卑社会やめようぜ!!」と腹の底から言いたいです。感動の涙より、無念の涙で胸がいっぱいです。いつまでこれをやるのか。いつまで「逆境にめげない少女」を私たちは応援し続けるのか。逆境をなくそうよ。逆境が温存されていることに対して怒ろうよ。よりによって人生初の貝堀りとGGGIランキング125位の発表の日にまたも「強い女性に感動!」かと、やりきれない気持ちで帰途につき、囚われのハマグリたちの海水を替えてやったのでした。海に戻してやりたい気持ちと、美味しくいただきたい気持ちの間で今も激しく揺れています。
前回記事「「女性が安心な混浴温泉」「温泉に来る男女=カップル」おもてなしのアップデートが必要だと感じた出来事【小島慶子】」はこちら>>
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