時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。

「好き」と「わかる」と「つながる」は違うもの。なのについ混ぜてしまいます。好きなら分かり合えるはずとか、分かり合えればつながれるとか。ところが、特に好きでもなく分かり合えているわけでもない誰かと、思いがけずつながることもある。人と人の間は本当に不思議なものです。

 

ある会合で、熟年男性に二の腕を揉まれそうになりました。揉まれないように身をかわすと、別の男性にスカートの裾を掴まれそうに。それもかわして熟年女性の隣に座ると「今の日本がダメなのは、今の母親がダメだから」。そこへ「そうだそうだ、子供を育てるのは父親じゃない。母親が怠けているから子どもがグレるんだ」と言いながらやってきた別の男性が私の顔をじっと見て「目が大きいとやっぱり目元のシワが多いな」……おっと、もしかしてここは昭和のまま時が止まっているの?

その日、私はジェンダー平等と多様性の尊重について、個人的な体験談を交えて話をしました。集まったみなさんはとても熱心に聞いてくれて「面白かった!」「小島さんのファンになったよ」と絶賛。そして次々そばに来ると、バリバリ家父長主義的な価値観や男尊女卑の話を語り出したのです。実はこういうこと、珍しくありません。毎度「ちょっと、私の話ちゃんと聞いてました?!」と言いたくなります。だけどみんな、確かに私に親しみを覚えているのです。一緒に話したくて二の腕に手を伸ばし、母親批判の持論を披露する。目のシワから会話の糸口を探す。彼らの世界では、私が話したジェンダー平等の話と地続きのところにそれがあるんですね。それが「ふつう」なのです。

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「好き」と「わかる」は、別のこと。だから、話は理解していないけどその人が好きということは、十分に起こり得ます。人と人の間には、理屈を語る言葉の回路と並走して、理屈ではないものを非言語で伝える道が通じているのでしょう。好きで繋がれても、理屈では永遠に繋がれないこともある。この非言語の道は「情」などと呼ばれることもありますが、そこだけを通い路にすると、馴れ合いの関係にもなりかねません。前時代的だと切り捨てることもできるでしょう。けどこの獣道を、いやむしろヒトならではの道を、今の時代ならではのやり方で活かす可能性を探るのは、決してムダな努力ではないと思います。