大人になってくると、わかってくることがいろいろある。
そのひとつが人の愚痴や悩みに対し、アドバイスは無用という真理である。
「聞いてよ〜、こんなことがあってね」という取り留めのない話に「だったら、こうしたらいいんじゃない?」と解決策を提示する例のアレね。そんなムーブをぶちかました暁には蛇蝎のごとく嫌われるやつ。
この場合、発言の主が求めているものは、大体「共感」だったりする。要は、聞いてくれればそれでオッケー。余計な提案や反論は求めていないのだ。
だがしかし、長年、僕はこの言説に対して、否定的な態度をとってきた。
というのも、求めているのは「共感」と書いたものの、厳密に言うと「共感」ではなく「同意」。
「あの人のここが嫌い」「わかる。めっちゃイラッとするよな」
「こんな腹立つことあってん」「マジで? ほんまにムカつくな」
たとえ本人の言い分に非があろうと、それを指摘するのはナンセンス。一緒になって、「うんうん」と頷き合うのが大人のマナー。聞いている側の意見はこの場ではあってないようなものである。
コミュニケーションとして平和なのは、まあわかる。でもそうやって相手の意思を無視して同意を強要するのもまた暴力だよなあと、長らく疑問に思っていた。
一方、アラフォーになってくると、そこかしこで聞こえてくるのが、「自分がヤバい発言や行動をしはじめたら注意してね」という友達同士の自主取締委員会である。
何かと価値観のアップデートが激しい世間の流れに取り残されないためにも、自分が時代錯誤なことを言い出したら早めに指摘してほしい。できる限り老害にはなりたくない現代人にとって、この鉄の結束は社会からはみ出さないためのセーフティーバーなのだ。
さりとて、年をとればとるほど、前頭葉の機能は低下する一方。気は短くなるし、感情を抑えるのも下手になる。しかも、身体的な変化によって情緒のコントロールが効かなくなることもある。
ただでさえ神経が過敏になっている状況で、共感と同意のぬるいコミュニケーションに甘やかされきった僕たちが、はたして他者からの注意や指摘を素直に受け止められるのか。むしろせっかくの友人からの忠告をありがたく傾聴するどころか、「なんでそんなこと言うん? 僕がこんなに傷ついているのに」と跳ね除けてしまうのではないだろうか。
そんな懸念が現実のものとなったのが、つい先日のこと。人間関係でちょっとした衝突を起こした僕は、まだ頭に火がついた状態で友人にLINEをし、一部始終をぶちまけた。すると返ってきたのは、「う〜ん。でも相手に対してそういう言い方はちょっと良くないんじゃない?」という友人からの至極冷静な意見だった。
正直、自分にも非があることはよくわかっていた。つい感情的になると、言葉で人を追いつめるのが僕の悪い癖。幼少の頃から橋田壽賀子ドラマを観まくっていた僕は、すっかり嫌味と皮肉ばかりが上手い大人になってしまったのである。いつも心に赤木春恵。
でも、そういう自分の未熟さは百も承知の上で、あのときほしかったのは、そういう言葉ではなかったのだ。ただ、「え〜、それは怒ってもしゃあないわ」と共感してほしかった。「あんたは全然悪くないで」と同意してほしかった。
あんなに人に共感や同意を強いることを暴力だと思っていた僕が、まんまとそれを他人に求めてしまっていたのだ。
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