そのことに気づいて顔から火が出るくらい恥ずかしかった。今なら貞子が井戸から這い出てきても、むしろ「遅いよ! 何時間待ったと思ってるの?」と自分から一緒に井戸の底までダイブするくらい、この世から消えてしまいたかった。結局、僕は友人のことを自分の都合のいい言葉を吐き出してくれるマシーンくらいにしか思っていなかったのかもしれない。

ちなみに、その後、腹の虫がおさまらなかった僕は、別の友人に「説明すると長くなるから説明せんけど、一言、あんたは正しいとだけ言ってください」とLINEした。当然友人からは「状況把握せんことには何とも……」とやんわり断られた。そのときは「真面目かよ」と悪態をついたけど、今思えば軽率に自分のことを甘やかさない友人がいることの方がよほどありがたく思える。

友達は自分のストレスを発散するためのサンドバッグじゃない。そんなことは言われなくてもわかっている。だけど、時々こんなふうに友情を笠に着て、友人を自分の不満や欲求の解消のために利用しているんじゃないかと罪悪感に駆られることがある。

でも一方で、弱っているときにそんな正論を吐かれたところで、「正しさと優しさは別……」と屁理屈をこねたくなるのも事実。正しさよりも優しさが有効な夜が人生にはあるのだ。

自分にダメなところがあることくらい百も承知。でも、今日ばかりはわざわざ急所を突いたりせず、思い切り甘やかしてほしい。こんな怠惰な中年の我儘をどう処理しながら、僕たちは生きていったらいいのだろうか。

そこでふっとよぎったのが、スナックのママである。40代になって、最近やたらと周りの友人がスナックに行くようになった。「スナック=自分よりもっと上の世代の人たちが利用するもの」と思い込んでいた僕は、思いがけずスナックがわりと至近距離までにじり寄ってきていることにビビりつつ、友人に連れられて何度か足を運んでみたりした。すると、まあ、なかなかに居心地がいいのである。

 

 

なぜかと言うと、スナックのママは共感と同意しかしない。ママから見れば青二才にしか見えない小僧の戯言を「そうね」「そうね」と聞き流してくれる。だって、ママにとっては商売だから。つまり、分別のついた中年にとって共感と同意とはお金で買うもの。それを友人に無償で強要しようとするから摩擦が発生するのだ。

 

大人になってくると、わかってくることがいろいろある。

子どもの頃、中年のおじさんたちがスナックに入り浸っては管を巻いているのを見て、一体何が楽しいんだろうと不思議だったけど、つまりそういうことなのだろう。リアルの関係に差し障りを生まないために、中年はスナックで本音をぶちまける。あれは、中年なりの処世術だったのだ。

自分がそんな中年に着々と近づいていることに背筋が凍るものを感じながら、年をとるごとに獰猛になりつつある自分の気性の荒さをどう飼い慣らすか、僕はまだ正解を探しあぐねている。

 

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イラスト/millitsuka
構成/山崎 恵
 

 

 

前回記事「「アクスタとの聖地巡礼」がこれほど心に効くなんて。人生のしんどい場面に出くわした僕を救ってくれた、1泊2日温泉旅」はこちら>>

 
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