粘り勝ち
電話台?
思いもよならない言葉に、私は一瞬ぽかんと口をあけて、それから引っ越して数か月のアパートの小さな部屋を思い浮かべる。確かに、電話代は前の家からもってきていた。今の部屋には固定電話を引いていなくて、その電話台は部屋の隅にとりあえず置かれている。
「ええ、一応……その電話台がどうかしましたか?」
「ご主人が。『電話台、見て』って」
「え?」
ちょうど交差点で、信号が赤になってよかった。ブレーキが乱暴になってしまう。
「どういうことですか?」
からかってるのかな? と思ったが、涼森さんはいつもの涼森さんだった。淡々と、クールに、でもまっすぐにこちらを見た。
「あなたの近くに、ご主人がいて、ずっと話しかけてる。電話台、見て、見て、陽子、はやく、って」
それを聞いたとき、鳥肌が立つような感覚とともに、突然、涙があふれた。
翔の声、しぐさ、気配。優しい笑顔。真剣なまなざし。もう感じることはできないけれど、その様子はありありと思い浮かべることができた。
それから私は涼森さんの誘導に従ってすぐ横のコンビニの駐車場にどうにか車を停め、翔が亡くなって以来、初めて人前でわんわん声をあげて泣いた。
「……涼森さん、幽霊とは話せないっていったじゃないですか」
ひとしきり泣いたあと、私は涙を拭きながら隣を見る。彼女は苦虫をかみつぶしたような顔で言った。
「そうなんだけど、この1か月、ずうっとあなたの後ろでなにかを話しかけているから。声は聞こえないけど、さすがに、読めちゃったのよ、唇。粘り勝ちね、ご主人の。よっぽど伝えたいのよ。早く、確認してみたほうがいいよ」
夫の祈り
帰宅後、いそいで電話台をひっくり返して調べたら、引き出しの奥に市の健康診断の結果通知封筒が挟まっていた。消印を見ると、半年以上前、翔が入院した頃。私はこの健診を受けたことさえ忘れていた。
きっと翔が入院前にこの台の上に置いたものが、落ちて紛れてしまったんだろう。
通知は、『婦人科要精密検査』になっていた。私は冷や汗をかきながら初めて有休を取り、それをもって病院にいくと、すぐに検査が始まった。結果、子宮に腫瘍が発見された。ほおっておくとよくないものだった。お医者さんは「ギリギリだけど、多分大丈夫、すぐに手術をしましょう」と言ってくれて、幸いにも数日の入院と手術で治すことができた。
「私、いくら幽霊が見えても、こういうおせっかいごとは絶対しないって決めてるの。でも、今回は『彼』の根性に負けたのよ」
涼森さんは、そう言ってため息をつきながらも、術後の私を何かと助けてくれた。
運命って、なんて残酷なんだろう。
翔がいなくなってから、私はずっとそう思って生きてきた。心のなかで、不運を嘆き、やり場のない悲しみを必死で見ないようにして。
でもなぜか、涼森さんの前で泣いた日から、ほんの少しだけ私のなかで何かが変わったような気がする。
それは希望と呼ぶにはまだあまりにもささやかなもの。それでもどこかで翔が私たちを見守ってくれているかもしれないと思うだけで、まだもう少し、もう少し実花の手をひいて歩いていけると思えた。
私はこの葬儀屋さんで、温かい同僚に囲まれながら、1日、1日を生きていく。長い道の終点に、かならず翔がいることを信じて、一歩ずつ歩いていく。
次回予告
ホストファミリーの家に到着。彼女が見たものは……?
イラスト/Semo
構成/山本理沙
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