平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。
そっと耳を傾けてみましょう……。

 


第50話 桜の木のしたで

 

「ごめんなさいねえ、予約のお電話もしないで髪の毛を切りにきたりして。お昼どきだったから、もしかして食事のおつもりだったかしら?」

手元のハサミを止めると、鏡越しに少し申し訳なさそうに微笑むお客さまと目が合った。グレイヘアが素敵な、初めての女性。銀髪がお似合いで、60代の方かなと思ったけれど、肌の感じからもしかして50代かもしれない。

「吉田さま、とんでもない。午後の予約がキャンセルになってしまって、ナイスタイミングでした。お昼は早めに食べていますから、ご心配無用です。……すみません、お気を遣わせてしまいましたか。実は私、昨日あまり眠れなくて。疲れて見えますよね」

私は鏡越しに一礼すると、またカットをはじめた。

都心の商業施設に入っているこのサロンは、都内にいくつか系列店があり、私が店長に抜擢されたのは去年のこと。雑誌の撮影にも使われるし、ちょっと有名な店なので、予約なしで彼女が入れたのは、平日とはいえラッキーだった。

「あらまあ、何か心配ごと? こんな大きなお店の店長さんだから、お仕事、大変よね」

吉田さまの優しい声と言葉に、私はつい本音を漏らした。

「いえ、仕事はむしろ絶好調なんです、こうして新しいお客さまにも来ていただけていますし。……じつはプライベートで、夫とちょっとすれ違っていて。私が忙しくて仕事にかかりきりになったところに、夫は失業しちゃったんです。そこから色々あって急にうまくいかなくなったというか。彼っていわゆるダメ夫なんじゃない? 子どももいないし、もういっそ……なんて夜中に考えこんじゃいました」

いけない、いけない。初めてのお客さまが会話をしてくれたので、調子にのってつい愚痴をこぼしてしまった。

「まあ、なるほどね。長い人生だと、そういうときもあるかもしれないわね。

でも、もしすれ違ってるだけだとしたら、もったいないわ。本当にダメな夫って、そんなものじゃないと思うの。私の『いなくなった』夫みたいにね……」