人間を人間たらしめ、戦わずして人を動かす強い力を与えるもの
阿古さんは、平安時代の貴族はどのような思いで鎧に意匠を凝らしただろうか、鳥の声や花の色に何を感じただろうかなどと、当時の人々のことをよく想像するのだそうです。実は私も今、平安時代よりもさらに400年ぐらい昔の飛鳥時代について調べているのですが、やはり「当時の人はその時どう思っただろうか」、明日香の地に立って「この景色を見て、この風の音を聞いたのだろうか」と、その時生きていた人の暮らしを想像の世界で訪ねています。
昔のことは記録や資料だけでは分かりません。もう消えてしまって誰にもわからないことの方がはるかに多く、けれど1000年前も今も、人が感じることにはきっと共通することが多いだろうとも思います。これは歴史家のものの見方とは異なるでしょう。でも、「あなたを知りたい」と古の人を思い、美を通じてその人たちを身近に感じ、あるいはすごいなあと尊敬して、その人たちが愛したものを次の世代にも伝えたいという思いを抱くのは、人の心の動きとして普遍的なものではないかと思います。
1000年の時を隔てて体格や言葉や生活様式は違っても、人の体を持ち、人の頭脳を使って生きている者同士ですものね。例えば、今年最初の梅の花が咲いたのを飛鳥時代の人と平安時代の人と阿古さんと私が一緒に眺めたら、案外話が盛り上がるんじゃないかと思うのです。梅、きれいですね。いい香りね、早く暖かくなるといいねと。その時に感じている「ああいいなあ」は、表現方法や名付けは違うかもしれないけれど、本質的な生きる喜びに根ざしているように思います。人間が人間である所以というか。
「美」は、ただ上べを飾り虚飾を示すためのものではありません。見て美しいものだけでもありません。美であると認識すらされていないかもしれません。それでも人を動かす強い力と、大きな喜びを与えてくれるものが、この世にはあります。「ああ」と心奪われ、深い敬意と感動を与えてくれるものとの出会いが、生きる力を与えてくれます。
そんな話をしていたら、気づけば、あっという間に2時間が経っていました。阿古さんと写真を撮って、また会いましょう! と手を振りました。
強くなってきた雪の中、急ぎ東京へと戻る新幹線で、楽しい時間を振り返ります。阿古さんは、平安の大鎧の美をこう説明してくれました。「戦国時代のように戦う機能に特化した鎧ではなく、平安時代の大鎧は美しさで威厳と富を示し、相手を圧するものでした」その美には、儚さやもののあはれも感じられます。そこが他の時代とは違うというのです。
美の本質とは、生を尊ぶ気持ちにあるように思います。美だ芸術だなんて、お貴族さまの趣味の世界でしょという人もいるけれど、人が安心して生きられる世の中は、儚いけれどもかけがえのない生を大切にする人々によって作られるものではないのかなと、ふと思ったのでした。
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