昭和の時代までは、権力を背景に弱者の人生を踏みにじるような行為が当たり前に行われていました。しかし社会が成熟化してくるにつれて、こうした暴力的行為を多くの人が嫌悪するようになり、ルールの徹底化が進められました。ところが現実には昭和的な体質がまだあちこちに残っており、周囲の人が見て見ぬふりをするという社会的な隠蔽もなくなっていません。
ルールを前提とする近代社会では、こうした行為が行われた時には、企業など組織内部で自主的に調査を行い、自らけじめをつけることが強く求められます。そこで解決できなければ、司法という手続きで決着をつけるのがルール社会の原則です。ところが日本では、組織の自浄作用どころか、権力を持つ人がそうした行為に及ぶと、皆でそれを擁護し、立場の弱い人だけが一方的に犠牲になることが当然視されている面があります。
これまで多くの被害者が、自らが受けた仕打ちについて社会に訴えることができず、泣き寝入りを強いられていました。一方で、ネットがこれだけ発達したにもかかわらず、日本人は権威が大好きですから、SNSで個人が発している情報よりも、週刊誌という巨大メディアの情報を圧倒的に重視します。
この二つの状況が重なると、被害者は権威が高い週刊誌での告発に頼ることになり、週刊誌が異様な権力を持つにいたります。同じスキャンダルであっても、訴訟や示談などルールで解決されることが多い諸外国とは、この点においてかなり様子が異なるといってよいでしょう。
ここで週刊誌がケシカランと言って、その報道を規制しても、社会の根本的な問題が解決されない限り、今度は別の形で、イレギュラーな告発が相次ぎ、その媒体が異様な権力を持つことは目に見えています。
日本はルールで社会を統治する近代国家なはずです。
そうであるならば、社会で起こった不祥事というのはルールに則って処理を行い、それでもうまくいかない場合には法的な手段に訴えるという、論理的な解決が求められます。
近代社会としては当たり前のことが、日本社会では出来ていない状態であり、これが時に巨大な権力を生み出す原因になっているのです。この部分にしっかりと目を向けない限り、同じことが繰り返されるのは間違いありません。社会全体として不正を許さない仕組みを構築し、泣き寝入りする人を減らしていけば、自然とこうした過激なスキャンダル記事も消滅していくことになるでしょう。
前回記事「現場の声に「けしからん」経済界トップの発言が象徴する、日本の人手不足がここまで深刻化したワケ」はこちら>>
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