入った瞬間、ひんやりと……
これまで、幽霊を見た経験なんてないし、信じてもいないけれど、その部屋は確かに一歩入った瞬間、湿ってどんよりとした空気を感じた。
冷たい白い壁に、奇妙な抽象画がかけてあるツインルーム。突きあたりの窓のカーテンを開けると、目の前は古いビルの裏手で、眺望はのぞめない。
――うわ、なんか暗い部屋。嫌だなあ……お、お塩まこう! 柏手って何回打てばいいのかな?
スマホで検索して、見よう見まねで盛り塩を作り、柏手を打つ。気分が少し、落ち着いた。暖房を入れてみると、埃臭いにおいが充満する。ため息をついて、窓を少し開けた。
「明日の朝の集合は7時半だし、もう今夜は寝るだけ。あと10時間……死ぬ気で寝るしかないよね」
今朝は5時に起きて羽田から地方を2往復半飛んだ体が、急速に重く感じた。スマホをチェックするけれど、期待した彼、彰人からのメッセージはない。……確かに「今日の仕事」がハードだったことを、私はよく知っている。無理もないか。
できるだけ素早くユニットバスでシャワーを浴びると、いそいで明日のフライトの準備をしてからベッドにもぐりこんだ。ふたつあるベッドの、奥のほうを選んだ、なんとなく。
「今日は真っ暗にしなくていいよね……」
テレビをつけて、音をちいさくしておく。入口ドア付近の灯りも消さずにおいた。普段は真っ暗にしないと眠れないけれど、今夜は無理、無理。
本当はビールでも飲んで寝たいけれど、フライト前夜はアルコール厳禁だ。仕方ない。私は無理やり目を閉じた。
時計は23時を指していた。
誰かがドアを
コン、コン、コン。
その音は、夜の静寂の中、なんとか眠りについていた私の耳に、まっすぐに飛び込んできた。
――え!? 何時?
ベッドサイドの時計は2時8分。真夜中だ。仕事の呼び出し? ホテルの人? それとも。
ベッドの上から動けない。ノックは止んだ。
――もしかして……彼?
眠る前、おやすみ、というメッセージと、だめもとで部屋番号を彰人に送っておいたことを思い出して、がばっと立ち上がる。
急いでドアに近づいて、覗き穴から廊下を見ると……誰もいない。
――来るわけないよね。いくら同じホテルだとしても、リスクが高すぎるし。彼はなんてったってパイロットなんだから、明日、居眠り運転になったら困っちゃうしね。
そう、私の彼氏はパイロット。イケメン副操縦士の彰人から、入社半年で声をかけられて、付き合うようになった。でも一応社内恋愛だし、これは秘密。ただでさえ若手パイロットはCAの争奪戦。まだ2年目の私が彼女だと知ったら、きっと嫌がらせされてしまうという彼の心配の言葉を、私はくすぐったい気持で聞いた。
付き合うときに、もしフライトパターンが奇跡的に同じになっても、そこでは接触しないようにしようと言われていた。最近、経費削減でパイロットもCAと同じホテルの違うフロアにステイすることがあったから、本当は人目を盗んで忍び込みたかったけれど、彼は仕事にはストイックで翌日のフライトに支障が出ることはしないと言っていた。そういうところもかっこいい。
でも、彼じゃないならば、今ノックしたのは……?
その時、何の前触れもなく、ドアノブがすうっと下がった。ロックしていたから、もちろんドアは開かない。……でももし、鍵をかけていなかったら?
私は思わず「誰!?」と叫び、ドアを抑えた。チェーンもかかっているから、鍵をあけられたとしても入ってこれはしない。必死でもう一度鍵穴を覗く。廊下は蛍光灯が弱弱しく灯り、しんとしている。
心臓がどくどくと音を立てていた。
パジャマ替わりに着ている部屋着の上にパーカーを着て、スマホをつかむ。もうこの部屋にはいられない。靴を履こうとしたとき、壁にかけられている絵に頭をぶつけて、その拍子に絵が盛大にずれた。直そうとして、息をのむ。
――やだ、なにこれ!?
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